10月10日(日)、10月11日(月)
「文化としての身体」あるいは「身体としての文化」というコトバがある。身体性の問題は、古くて新しい問題だ。人間という存在を考えるときに、精神性と劣らぬ形で、身体性はその重要性を保持している。根幹的で、根源的な部分だ。快楽性、運動性、性、老い、障がい、認知性、表現、音楽ないし絵画性、儀式性、支配と被支配、軍事的身体性、スポーツ、政治文化、舞踊、ダンス、バレー、オペラ、演劇、ミュージカル、舞台芸術、リズム、等々、多様な領域を抱え込む。ここでは、そうした理論問題には、首を突っ込まない。
単純に、体が重く(体重という意味だけでなく?)だるいという自覚があったので動かしてみるかと思い立った次第。恐らくは、身体が発しているシグナルを受け止めようと思っただけで、どうということはない。祝日(体育の日)も、この場合、モチベーションをあげるのに後押しした。
とは言っても大したことはない。10日には、久しぶりに、プールに行き泳ぎ、11日には、近くの河川敷を少し長くウオーキングしただけだ。その大したことがないことを、日頃は時間的にも、精神的にも余裕がなく、つい避けてきたのだから、まことに愚かなものだ。
身体をひらくことは、言葉をひらくこと。思考を弛緩させ、思考を躍動させること。歩くことも、泳ぐことも全身の存在を感じ、水と大気を体に受け止め、前を進むイメージを豊かにさせる。そんな原初的な感覚がよみがえってくるから不思議だ。
歩きながら眼に写った風景。晩秋の昼下がり。
河川敷のせせらぎの音、草花の香り、すれちがう人々のオーラ、太陽の移ろい。いやはや、僕も老いを生き(息、行き)つつあるのだ。
この川にも鮭の遡上が始まっていると言うが、この日は見つけられなかった。
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