2月20日に首都大学東京での社会教育学会の日韓シンポから戻った。韓国の35人の参加者の方々は、意気軒昂であった。僕は前日からの強行軍で、疲労困憊、ヨレヨレ状態で札幌に戻った。
21日(月)は、午前に原稿書きが終わらず、午後大学に出向いた。夕刻は、こどけん(子どもの権利条例市民会議)例会。多くの案件があったが、9時過ぎに散会。僕は、その後研究室で仕事をして10時過ぎに帰宅。
22日(火)明け方に起きて、原稿仕事。ねばって、昼に少し形にして送信。大急ぎで空港に向かうが、またもやドジ。地下鉄でパスポートを忘れたことに気づく。パニック状態を落ち着かせて、移動手段と残り時間を判断。急いでタクシーをつかまえて、家に戻り、そのままタクシーでJRの駅へ。幸い道が混んでいなかった。JRで1本乗り遅れたが、空港で地上職員を煩わせて、なんとかギリギリで搭乗手続きに間に合う。(帰国後このことを家人に話すと、段取り不手際の毎回の問題で、「同情しない」と一言。その通りで、返す言葉がない。ああ情けない。)
ともかく、飛行機には乗れて、成田乗り換えで、仁川(インチョン)空港へ。(今回は、新千歳-インチョンの直行便が満席で取れなかったのだ)着いたのがもう夜半で遅かったが、今回は、同僚のK先生との校務仕事での韓国訪問。K先生は運転に自信あるとのことで、レンタカーを借りることになった。しかし、この日は、霧が濃く、しかも借りた車にはあいにくナビゲーションが付いていない!(カーナビ付きは出払っていた)ホテルに向かいたいが、どうも地理感覚が分からない。結局、ホテルから車で来てもらい、その後をついて行くことになった。夕食は簡単な機内食で終わりにするには空腹で、ホテル前のコンビニでおにぎり、水などを求めた。ホテルは安価なビジネスホテルの雰囲気で、空港に近いことだけが優位点。たしか、以前に1度だけ利用した記憶がある。
23日(水)
朝食後、時間の余裕をみて出発。ところが、高速道路に出る道が分からない。途中で、経費がかかるが、僕の携帯のGPS機能の経路検索で、何とか分かった。高速に乗り、今度はソウル市内へ。ところが途中の道を間違えて、漢江を渡ってしまう。88号線に行かなければならないのに、対岸の70号線に出てしまったのだ。橋を数えながら、5つめの漢江大橋を戻って、ソウル大学へ。75年に医歯薬系の学部を除いて大半がキャンパス移転したのだが、そのキャンパスである。特徴的な逆V字型の正門を潜って、通訳をしてくれるSさんを待つ。ホテルを出てから2時間半だ。(本来は1時間から1時間20分の予定) Sさんは仕事の関係で、前夜、釜山に着いて朝、キンポ空港へ飛ぶはずだった。しかし、この日の濃霧で飛行機は欠航。それで、始発のKTEX(韓国新幹線)で、釜山を出て、ソウル駅に到着後、タクシーで大学に向かってくれたのだ。ともかく、何とか、約束の10時半には間に合った。
キム・ジョンウク教育学部長(師範大学長)を表敬訪問し、大学間協定の内容の充実方策、部局間交流の実質化を討議。その後、ハン・スンヒ教授、カン・デジュン准教授、シン・ジュンチョル准教授と実質討議を行う。いくらかの内容の合意を得て、昼食。職員食堂で、2007年のH大のシンポに来ていただいたミンさんも合流。昼食後、簡単な合意確認をして、大学を辞する。
1時過ぎにソウルを出て、その日の宿泊ホテルである。テジョンに向かう。高速への入り口は、ソウル大のカンさんに教えてもらい、割とスムーズであった。途中1回休憩して、テジョンに着くが、ここからまた迷った。地図の表記が曖昧で、ホテルは、テジョンではなく、ユソンだったのだ。色々な人に幾度も道を聞いてようやくホテルにたどり着く。着いたのは5時前後だった。4時間かかった。
ホテル「貴人」(リビエラ)という宿は、快適なホテルだった。
5時50分に公州大学校の国際本部関係者が来て、夕食会。キムデグスー国際本部長、チェ現教育学部長(師範大学長)、国際本部職員、日本語ができる院生、それにこの日、ソウルでの会議に出ていたヤンビョンチャンさんが駆けつけてくれた。色々と話して、うちとけた雰囲気になった。ホテルで別れる前に、おみやげを渡す。その後ヤンさんとスカイラウンジで交流。良い時間になって散会。
24日(木)
朝、院生が来てくれて、大学までナビしてもらった。
公州大学校では、この日学部間交流協定から大学間交流まで引き上げるための実務的及び実質的な討議を行った。有意義な議論ができたが、実質化にはそれぞれの大学内での合意形成や意識づくりが不可欠だ。この日はジョ・キュスク国際副本部長、キム・ユンワン新師範大学長、国際本部マネージャーのコン・ユンスクさん、それにヤンさんなどが出席。午前で、話を終えて合意ができた。
昼食には、昨年H大を訪問されたパク人文学部長も参席された。この日は、日中は暖かく春の雰囲気だった。昼食後、大学を辞してソウルに戻るのだが、途中せっかくなので、プヨの地方政府道立歴史博物館に立ち寄ることになった。
6世紀の、建造物や造営を現代に再現するプロジェクトで17年かけての工期であったという。
プヨには国立歴史博物館もあり、そこには過去2回僕は訪れている。
この博物館を辞して、ソウルに戻る。途中高速道路入り口まで国際本部マネージャーのコンさんが誘導して下さった。
3時出発であったが、途中は渋滞が続いた。また、ソウル市内に入ってからやはりホテルにたどり着くのに難儀した。ホテルの地図が間違っているのだが、地名の場所にたどりつかない。ようやくホテル近くのガソリンスタンドで道を聞いて分かった。着いたのは7時半。4時間半だ。本当はゆっくり走っても2時間から3時間以内で着くはずだったが・・
このホテルは、初日と同じく宿泊するだけの安価なものだった。日本の旅行業者の指定ホテルは値段の割に信頼できない水準のものが多いように思える。これまでの経験では、ネットで直接予約を取る方が信頼でき、安価だ。またそういうホテルを定宿にした方が良い。
夕食は近くの焼き肉屋。ホテルに戻る前に、先週東京で会ったソウルの知人のCHさんに連絡。彼は必ず連絡せよとのことだったので一応電話をしたのだが、来られるという。申し訳ないことだった。11時だったが、CHさんが来て、近くの場所で懇談する。多くの話が出て盛り上がった。彼の深夜バスの最終時間を見て、散会。
25日 (金)
この日は、比較的ゆっくりして空港へ向かう。この日は目的地がはっきりしていて、スムーズにたどりつく。K先生は、運転お疲れ様でした。
ただし、この日はインチョン空港での待ち時間、乗り換え空港の成田での待ち時間が長く、往生した。成田では、PCの充電ができて、メールを最低限やりとりできた。成田空港は20度の外気温。新千歳空港はマイナス5度。25度の落差は大きい。体調が気になるところだ。まあ、それでも何とか夜半に帰宅する。(11時だった)
2月26日(土)
午前、家人を南区の織りのスタジオに送った後で、ジムで体を動かし、疲れをほぐす。その足で、大学に向かい、大学院ゼミの総括を行う。1年間の反省が多く出る。
夕刻は、学部と大学院の合同ゼミコンパ。欠席者もいたが、一定数の出席で、卒業祝賀、大学院試験合格(修士、博士後期)の慶祝懇親会だ。二次会には、久しぶりにカラオケへ行った。教員であるが故の多少の出費もあったが、お祝いだ。こういうときに思うが、中国の留学生と日本の若者(院生・学生)の歌声に、元気と友好、希望を感じた。
中東各国の民主化のうねり、中国内の民主化を求める声。そういうものを、どのように我が胸に受け止め、若い諸君と対話ができるのか。そういう場を創り出していかなくてはと、やや酔いの中で、歌声を聞きながら思ったりもした。
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