ドイツのメルケル首相が、原発17基の早期廃止を、国内16の州の州首相と協議して合意したとの報道がなされた。(4月15日)
主要国の現在稼働中の原発は、米国104,フランス58,日本54(福島第一原発の事故基4を含む),ロシア32,韓国21,インド20,英国19,ドイツ17,中国13、である。(世界原子力協会(WNA)の集計、2011年4月、朝日新聞、GLOBE ,2011年4月17日)
メルケル首相の原発早期廃止の決断。
こういうのをこそ、肝心なときの決断(英断)というのだ。
対して、我が国のKAN首相は、復興ビジョンを「復興構想会議」(4月14日初会合)なるものに丸投げした。
これをして、肝心なときの決断とは言えまい。
日本とドイツは、第二次大戦を敗戦で迎えた両国であり、戦後復興を行った国であり、原発をもつ二つの国であった。しかし、このような両国でありながら、政治の質は相当に違う。今回、この二つの国の政治の落差をまたしても我々は味わうことになった。
その意味で、僕は、1985年5月8日に、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領が敗戦40周年に行った演説、「荒れ野の40年」を想い出すのだ。
「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。だれもが過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされております。
心に刻みつづけることがなぜかくも重要なのかを理解するために、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」
これに対する、我が国の歴代政治政権の戦前に向かう思考と反省の質の問題は、比較するのも恥ずかしいものであった。
今回の原発事故に関しても、政治と企業と学会のトップリーダー(首相と東電社長、原子力研究者)は、それまでの原子力政策(過去)にどのように責任をもつかが問われているのだ。上記のバイツゼッカーの言葉とメルケル首相の決断を、もう一度よくかみしめたいものだ。
そしてだ。
日本の政治の「肝心なときの不決断」(愚断)の中で、またもや国民の声を聴かず、国民をを犠牲にする官僚と資本の意のままの愚案が練られていくのを見るのは悪夢である。
その「復興構想会議」の初会合で飛び出してきたのは、「震災復興税」だという。そして、その財源は、消費税が濃厚という。
「復興構想会議」のI議長も、検討部会のM部会長やまとめ役II氏も、なにやらこの間自公政権と民主党政権の政界の権謀術策の海を渡り歩いてきた(言い過ぎかもしれないが)政治学や公共政策学のおよそ新鮮さのない人々である。それらの人々を、KAN首相は任命したのだ。
「復興構想会議」の特別顧問は、哲学者のU氏だが、今回の震災は「天災」でも「人災」でもなく、「文明災」だという。哲学者の深遠な説を説くのは自由だが、多くの犠牲者、困苦を強いられている被災者、まして福島原発事故の脅威にさらされている人々の実感となんと遠い言説であろうか。
こういうのを「聴く力」がないというのではないだろうか。
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