8月30日(月)札幌はこの日最高温度、34度だったという。
明け方何とか形にして原稿を送稿。ギリギリの時間で、パッキングして空港に向かう。
これまた何とか搭乗手続きを済ませ、機内に入る。ただし、あわてて出てきたせいもあって、途中で、忘れ物のいくつかに気づいていたが帰宅するわけにもいかない。(ICレコーダー、変換プラグ、などだ)成田空港までのフライトは、眠っていけると思ったのに、中東系の家族の騒々しさで眠れない。客室乗務員が気をきかせて、イヤプラグをくれる。
成田では、待ち時間を利用して、関係する本の校正のことを出版社とS氏と調整。6日帰国時まで間に合わせることに。また、朝送った原稿のことで、T氏にメール。K氏にも連絡。出国手続きをすませて、免税フロアで、追加の土産物、忘れてきたICレコーダー、変換プラを購入。何とか、これでモンゴルに行ける。
モンゴル航空は、まあ何というかその国の国民性が出る。客室乗務員の、バタバタしている感じ、その分率直な雰囲気。モンゴル人の乗客の素朴さ、日本人の乗客は、研究者らしき人々(「温泉博士」M氏、ほか)と企業関係、芸能関係、観光客などである。そうした相乗効果が機内を支配している。昼食に出た食事は、まあ普通。この日のモンゴルビールはぬるくて味がない。ワインは東欧系の産地だった。なお、客室乗務員は、契約社員なのか正規職員なのかわからないが、モンゴル系もいるが、多くは顔立ちから少数民族か、ロシア系の雰囲気である。日本海を超え、韓国を縦断し、ユーラシア大陸に入る。ロシア国土を越えて、モンゴルに入ると、砂漠と木のない山々が延々と続く。
時々、谷間に、大地に釘で字を書くように、舗装なき道路が眼下に網の目状に展開している。古来の道が今も使われている感じだ。ウランバートルは、不思議なまちだ。木のない山々が続き釘で字を書いたような道が続いていたのだが、突然植樹された山々が現れる。山の向こうに、いきなり突然に都市が出現する。川が流れ、農地が部分的に顔を出す。遊牧のゲルやパオが消えるとコンクリートの建物群が現れてくる。個々の家は、屋根に赤色のものが多い。舗装された道路が見えてくる。
チンギスハン空港に着陸。成田から4時間半のフライトだった。
モンゴルは、日本の面積の4倍の土地に、わずか280万人の人口だ。首都ウランバートルには、110万人が住み、全人口の約40%がここに暮らしている。政治・経済活動、文化・教育、放送・新聞メデイア関係、学術・研究、国の行政機構、等々は、ウランバートルに一極集中している。
空港での手続きを済ませて、ゲートを出ると、院生のJさん(モンゴルからの留学院生、今回の調査の研究協力者)が出迎えて来てくれている。彼女の友人の車での手配があり、途中両替所に寄ったあとで、ホテルに向かう。日系のホテル、Fホテルである。住宅地の中にあり、スタッフの一定程度、日本語が通じるのが助かる。この国の一定年齢以上は、ロシア語ができるが、英語はまだ弱いらしい。当方のモンゴル語は、ゼロであるからして、相手に英語が通じないと、日本語ができるスタッフがいることは安心である。客も日本人(次いで韓国、中国)が多い。
ホテルのチェックインが終わると、部屋の案内。ネットが通じるのは嬉しい。
疲労困憊で、いくつかのメール発信を済ませるとベッドに潜ってしまった。深夜に目がさめて、一度起きてまた寝入る。
8月31日(火)
ホテルの周りは住宅街である。ウランバートルのごく一般的な市民の住まい風景である。
ホテルの朝食はまあまあの水準。これなら1週間はもちそうだ。バイキングメニュー内容は、韓国や中国のホテルでの食事よりも日系ホテルらしく、洋風を基準にモンゴルの民族色が強くない。
モンゴルの科学技術分野のマスタープラン(英文)に目を通していると、掃除の女性が来る。次いでJさんがやってきた。訪問が早くなって、今から行くという。
タクシーで、モンゴル国立教育大学へ。大学は9月1日の新学期開講前で、学生であふれている。いたるところ工事中なのだが、建物の水準がまあ(地震がないから良いのか)素朴というか、一昔前の仕上がり水準。内装の部分や電化方式は現代水準であろうから何かちぐはぐしている。すでに予約をとっていた学長のB.JADAMBAさんにインタビューだ。国際会議、「持続的発展可能性と教育」を主催されていて、その多忙な合間のインタビューだ。学長室の前は、長蛇の列。学長への面会を求める学生やその他大勢の人たちだ。僕たちはそれをジャンプしてインタビューとなった。学長は、国際会議の途中の時間とあって、どこかあわただしく、しかし気さくな感じの人だ。風邪を引いて気管支の調子が悪いとのことであった。悪条件の中で、時間を割いていただいて多謝の限りである。インタビュー時間は50分くらいだった。
右は、研究調査協力者のJさんだ。彼女はこの大学の学部と大学院(修士)の卒業者だ。
学長のB.JADAMBAさんからは、モンゴルのアクレデイテーション導入の経緯、その効果、実際のやりかた、自立性、私学への効果、国立教育大学への効果などを聞く。詳細は省くが、まあまあのことは聞けたかと思われた。資料等については、後日Jさんに渡すとのことだ。
大学を離れて、昼食に行く。モンゴル料理店で良い店へ行くというので、国立博物館近くの店(Modern Nomads)へタクシーで行くが、満席で20分待ちという。そこで、姉妹店へ行くことになったが、なかなかタクシーがつかまらない。
ここで追加情報だ。モンゴルのタクシーは、正規のタクシー以外に、日本流で言えば、白タクが町中を走っている。違いは、タクシー名を表示しているのとしていないことの違い、車の状態(前者は標準、後者は劣悪、しかし例外もある)、運賃(前者は標準、後者は安いがバラバラ、これも例外がある)などで、共通点は、右手を下向きに挙げてタクシー待ちを表示すると止まってくれる点だ。一部の白タクの横行は、経済危機が背景にあって、タクシー会社の過当競争で多くの会社が倒産にあって雇用されていた労働者が首切りに会い、各自がタクシー業務を始めたり、安い車を手に入れた人が勝手に事業をしていることだ。警察の管理・取り締まりは、事実上無いに等しい。ウランバートルには、公共交通機関は、バスとトロリーバスがある。運行時間の定刻走行がないので、従って時間に見通しが立たない。スリも多いので、コトバの問題もあるが外国人観光客には向かないし、急ぐ人には不向きである。しかし、車を持たない人にとっては唯一の移動手段である。不思議なことに、町中には、自転車やオートバイを見かけることが少ない。これは、氾濫し乱暴な運転の車の犠牲になりやすいこと、道路の悪路(デコボコだけでなく、穴があいていたり等)で自損事故でけがをしやすいなどの要因からくるようだ。車を持たない人は、歩くか、バスを使うかだ。中国やベトナムのような、自転車タクシーあるいはバイクタクシーはいない。馬車もいない。必然的に、各自が競って車を求めることになる。見ている限りでは、日本のありとあらゆるメーカの車(右ハンドル)が5割くらい、韓国の車(左ハンドル)が4割くらい、その他の欧州車(左ハンドル)が1割くらいだ。右ハンドルと左ハンドルの車は、右が多いがほぼ半々くらいである。本来は右側走行(左ハンドルが本来)の国で、右ハンドルの車が多数派というのは、不思議な光景だ。なお、軽自動車はほとんどいない。ランドクルーザーのような大型のRV車が結構多い。ワンボックスカーはそれほど多くはない。車検があるのかないのか、超高級な車とポンコツ車が並行して走っている。韓国車には、ポンコツ状態のものが多い。多分、新車を買う層と中古車を入手する層の二極化があるのだろう。乗った白タク、タクシー会社の車を問わず、へこみ傷が多かったり、中には助手席にシートベルトがついていなかったりのものがあった。運転は、アジアのモータリゼーション新興諸国に共通するが乱暴でクラクションが鳴りっぱなし。信号は、歩行者はあまり守らず勝手に渡っていく。乱暴な運転ではあるが、それでも事故をあまりみないのは、悪路のせいでスピードが出ないからだ。
つい横道にそれた。
ウランバートルの中心街である。
モンゴル料理は、オイリーなものが多いのでメインデイッシュの前には、サラダが不可欠だ。
昼食は、タクシーを再度つかまえて、モンゴル料理店(modern nomads)の姉妹店へ。なかなか場所がわからなくて二度タクシーをつかまえた。ようやくに入ると、外国人客が多い。アメリカ、ロシア、フランス、日本、韓国などだ。ビールとサラダはすぐに出てきたが、メインデイッシュは、注文してからでてくるまで時間がずいぶんとかかった。味は、まあまあだった。
移動や食するのに随分と時間がかかった昼食だった。タクシーを再度捕まえて、今度は国立博物館に出向いた。人類史の初期の時代から現代までのモンゴルの歴史が表示されている。長い、長い歴史がこの地の社会および国を動かしてきた。実に多様な支配と被支配の歴史がある。その中で屹立するのが、チンギスハンだ。現在約300万人の人口の中で、18の民族が居住している。顔立ちも多様だ。その根拠が、国立民族歴史博物館の歴史パノラマで伺える。博物館の後は、国会議事堂前のモンゴルの人民広場(スフバートル広場)で記念写真。
チンギスハンの銅像。紙幣の絵柄でもある。
疲れたので、ホテルに戻る。ポンコツ白タクで戻ったあとで、近くのスーパーマーケットで水、その他必要な果物等を求める。ホテルの周りは住宅街だ。新学期前で、子どもの声があふれている。
ホテルに戻って、夕食に、ホテル内の中国レストランへいく。
食後、いくつかメール連絡をして、入浴するともう気力は失せた。ベッドへ直行だ。
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