3.11東日本大震災は、あらためて既存の枠組み=流布された「常識」とシステム、原理、を疑ってみることの大切さを教えてくれている。
その要点は、耳を研ぎ澄ませ、頭を働かせ、足を動かして、それが本当かどうかを確かめてみる実践的行動力であろう。別な視点では、批判的リテラシー(世界をいったん疑って、その上で、世界を、読み取り理解し表現する力)をどれだけ鍛えるかだ。
またこのことは、表題にかかげた「聴く力」、「無私であること」を問いかけている。
<聴く力>、<無私であること>とは何であろうか。
<聴く力>とは、僕なりに理解すると、真実や人権意識の前に柔軟であり、誤りを認めるに敏であり、違う考えを受け止め理解する力、自説を控え相手の意見に耳を傾ける力ということになろうか。(辞書的には、①物理的に音が耳に入り、聴管に音の感覚を生じる、②人の言葉をうけいれて意義を認める、③反省する、ふりかえって考える(『広辞苑』)があり、②、③あたりが、この文脈に近いと思う。)
<無私であること>とは、これも僕なりに考えると、物事の判断において、公平、公正、公共性の前に曇りのない立場で臨み、私益や、恣意的我欲に立つ考えを捨てることであろうか。(辞書では、私心のないこと、公平なこと、『広辞苑』)
国会で追及されたようだが、原子力を教える小学校、中学校用の副読本の中には、(文科省、資源エネルギー庁発行)には「もし地震が起きたとしても・・・まわりに放射線がもれないよう、がんじょうに作り、守られています」との記述があるという。
また、日本原子力学会が教科書検定の際に、原発記述については、「短所の説明には、力をいれているが、長所は極めて簡単な説明にとどめている」ので、不適切で、「改善」を求める「要望書」や「提言」を出していたというのだ。(「潮流」赤旗2011.4.15 )
偶然眼にした指摘であるし、政党機関紙だから、ひょっとすると色眼鏡がかかっているかと、その源を調べてみることにした。
つまり文科省、教科書、学校は、「原子力」をいかに教えてきたのか、あるいは今、この事態の中で、何を教えているのかを具体的に見てみようと思ったのだ。
そこで、一つの素材として、「原子力、エネルギー教育支援情報提供サイト」(あとみん)
なるものがあることを知った。
http://www.atomin.go.jp/index.html
ウエブの主体は「日本原子力振興財団」(1969年設立)である。原子力開発を推進する企業や、研究機関等によって立ち上げられた広報団体である。文科省の原子力に関する教材、教育内容の提供業務の委託を受けている財団である。
そこで驚くべきは、今も原子力発電が、低コストで、CO2を出さず、かつ最新技術で安全であるとの啓発PR事業を行っていることである。ただし、正直なところもある。すなわち、原発は、放射線廃棄物処理が、唯一の弱点であり、低濃度放射線廃棄物は、青森県六カ所村で埋設しているが、(とはいえ、収容量に限界があることや使用後燃料棒のことには触れていない)高濃度放射線廃棄物処理施設は候補地を探していてまだ見つかっていないとを告白している。
問題は、3.11以降もこのようなPRを、資源エネルギー庁や文科省の委託経費をもらいながら行っていることである。そこでは、繰り返すが、今までどおりに、原子力の安全性に立った、原子力に関する、小中高の教員の教材を提供し、児童生徒の学習コンテンツの提供をしているのである。その意味では、今回の大地震・津波による原発事故を反省して、ふりかえって、批判を真摯に「聴く力」も姿勢も、ここには伺えない。
疑問ならば、上記サイトをのぞいていただきたい。
素材の二つ目は、「日本原子力学会」という学会である。学問研究には、色々な立場があっても良いが、 原子力の研究には、おのずと人類的な平和や安全への貢献、社会的使命というものがある。そのようなミッションを背負った学会が、何故、上記のような教科書検定などに、要望や提言をするのだろうかという素朴な疑問が僕にはあった。
また、なぜ「原子力サークル」とか「原子力村」と呼ばれてきたような研究者集団や、企業、政府機関が形成されてきたのかも疑問であった。そして、「原子力サークル」の中心に位置する一つが、どうやらこの学会のようである。
上記の「あとみん」のリンクにはこの学会のURLが貼り付けられている。HPを検索し、その役員名簿を見ると、あらためてびっくりする。今回の原発事故に関係する企業は、ほとんどすべてが理事にいる。また、政府関係機関もそうだが、これらの企業に密接な大学の特定研究部門の研究者が名を連ねている。
http://www.aesj.or.jp/
Yakuin aesj 日本原子力学会 役員2010をダウンロード
学会の目的には、強い社会啓発意識が述べられている。しかし、今回の原発事故の前には、それらは皆色あせて見える。会員研究者の中には、無論原子力の平和利用の研究的な使命や良心において秀でた方々もおられるのであろうが、しかし、他方では、科学の、企業的体制化(プライベートサイエンス)の姿がちらつくというのもあながち不当ではないようにも思える。産学官共同という内実があらためて総点検されて良いように思われる。
例えば、現副会長が三菱重工のHPで語っている内容には、はたしてそうなのであろうかという危惧を覚えるは僕だけであろうか?
http://www.mhi.co.jp/atom/human/interview079.html
なお、この間、原子力研究の中心にいた人たち16名による、国民への謝罪と事故解決の真摯な提言に、僕は、門外漢の一市民として、科学の反省的発展への一縷の希望をつないだ。http://www.yomiuri.co.jp/stream/press/movie.htm?id=19649&feed=19649 記者会見動画
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110401-OYT1T00801.htm
原子力研究の中心的推進者たち16人を代表して謝罪と提言の記者会見(2011年4月1日)を行った前原子力委員会委員長代理で元日本原子力学会長の田中俊一氏は、別の機会に、今回の原発事故への初期対応の問題を指摘している。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-04-14/2011041415_01_1.html
これらには、原子力開発研究をになったOBたちの真摯な反省はあるにしても、現状はどうであろうか。
原子力関係の研究構造や研究予算配分システムを考慮すると、不安に駆られる要素はまだまだ多い。この分野の研究は、生命科学やナノテク、バイオ研究と同様に、科学技術政策に関する国策の重点項目である。従って、それだからこぞ、専門分野の研究者だけに閉じない、市民科学や国民からの規制と改善要望を受け止められるシステムが必要なように思える。
しかし、現在の日本原子力学会などの姿には、残念ながらあまりそのような深い学問的責任にたつ省察や反省意思を感じ取ることはできなかったというのは、門外漢の言い過ぎだろうか。
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