今の職場は、国立大学法人○○大学である。国立大学法人化以降は、国家公務員ではなくなったので、労働組合による労使関係、あるいは過半数代表者制度が「正式に」動き始めている。(労働組合は、以前からあったが、正式な交渉団体としての法的地位は、法人化以降である。僕も、加盟人数は少なくなってしまった労働組合員ではあり、毎月少なくない組合費を払っている。毎年の過半数代表選出の投票もさぼらずに参加してはいる。だが、役員などになることは、これ以上忙しくなりたくないので、ひたすら逃げ回ってきた。それでも、幾度か「不幸にも」(こういうフマジメナ言い方でゴメンなさい)末端役員をしたことはある。)
国立大学法人(制度)は、独立行政法人通則法の制度設計から抜け出せない構造になっており、「法人」とは名ばかりの、独立性においては、自主性、自律性を強調されながらも、最終的には、文科省、総務省、財務省のコントロールによって、首根っこをおさえられている。ただし、そのことにまつわる七面倒くさい議論は、ここではやめておこう。今日のテーマから言えば、必ずしも働くものの立場に立った制度設計にはなっていないということが重要だ。むしろ、経営体としての効率性を高めるために、選択と集中による財政配分原理による競争がもっとも煽られている事業体の一つといえる。はやり言葉で言えば、知的共同体から知的経営体への「転換」が必要だと脅迫されている事業体である。それがゆえに、人件費削減や非正規労働の導入は前提であり、深く熟考することもなくPFIやNPMの手法が良いことばかりであるかのように取り入れ、最小投資で最大の成果をあげるべく構成員の意欲と忠誠とがんばりが大事と訓示され、「愛校心」をくすぐり(出身校であっても僕は遠慮申し上げるが、学問や奉仕すべき国民以外の対象に敬愛をもとめる思考方法はいかがかと思う)、始終競争ランキングの上位をめざせとあおられている。(まったくどうかしてるよ)
そして、僕の従事している労働はいわゆる裁量労働とされる。見なし労働とも言われているらしい。研究労働というものは、時間管理上によって成果が直結するものではないことは確かだ。しかし、僕には、時間管理が比較的明確な教育労働も、管理運営上の労働もあるわけで(それは僕の経験上、かつてなく増大している。)ある。さらに、加えて、僕の分野は、民間の多様な実践や運動とふれあうことが研究や教育の源泉にもなることもあって、そうしたことにあてる時間も少なくない。そうしてみると、まったくもって、労働時間とは、ファジーな時間だらけで、規則正しい労働形態とはいささか異なるものとなっている。
ところで、裁量労働制を、もっとも安直な定義をwikipediaに求めると(これは、知的不誠実の証左だが、ここはお許しを)次のことになるようである。
「法的根拠
裁量労働制を採用するには、労働基準法38条の3及び38条の4*の要件を満たす必要がある。」
「専門的職種・企画管理業務など、業務の性質上、業務遂行の手段や方法、時間配分等を大幅に労働者の裁量にゆだねる必要がある職種であることが条件。当初は極めて専門的な職種にしか適用できなかったが、現在では適用範囲が広がっている。 厚生労働大臣指定職種も含めた主な職種は以下の通り。
- 新製品若しくは新技術の研究開発又は人文科学若しくは自然科学に関する研究の業務 」
(・・・以下、その他の具体的な例示があるがここでは略する・・・)
「専門的職種では労働者の過半数を組織する労働組合(無いときは過半数の代表者)との労使協定、企画管理型職種では労使委員会の全員一致での決議が必要である。」
なお、念のために言えば、大学教員の場合は、専門的職種に位置づけられ、下記の法的根拠を有するようだ。
(12)
学校教育法(昭和22年法律第26号)に規定する大学における教授研究の業務(主として研究に従事するものに限る。)
当該業務は、学校教育法に規定する大学の教授、助教授又は講師の業務をいうものであること。
「教授研究」とは、学校教育法に規定する大学の教授、助教授又は講師が、学生を教授し、その研究を指導し、研究に従事することをいうものであること。患者との関係のために、一定の時間帯を設定して行う診療の業務は含まれないものであること。
「主として研究に従事する」とは、業務の中心はあくまで研究の業務であることをいうものであり、具体的には、講義等の授業や、入試事務等の教育関連業務の時間が、多くとも、1週の所定労働時間又は法定労働時間のうち短いものについて、そのおおむね5割に満たない程度であることをいうものであること。
なお、患者との関係のために、一定の時間帯を設定して行う診療の業務は教授研究の業務に含まれないことから、当該業務を行う大学の教授、助教授又は講師は専門業務型裁量労働制の対象とならないものであること。
上記に照らしてみると、大学でも、比較的時間管理が明瞭な付属病院勤務の研究者は、裁量労働ではなく、通常の時間管理型労働にしないといけないとして、労働基準監督署から違法との勧告を受けた大学がいくつもある。当事者や労働組合が訴えて、大学は是正措置をとらざるを得なくなったと聞く。大学の事務職の場合も契約上は時間管理型労働だ。(サービス残業問題はあるが)
しかし、それ以外の研究・教育職種は、裁量労働時間だとされる。ただし、一日8時間を標準とした見なし労働だ。それだと、年間2000時間前後(単純計算すれば2085時間)になる。ちなみに、ヨーロッパ諸国の労働者の平均年間労働時間は、1700時間、日本は2100時間くらいと言われている。当然に、欧州と日本の労働時間の差は、長年にわたる労使交渉の歴史にもとづく力関係の差や、社会の文化、慣習、労働時間に関するコモンセンスなどの差があり、それを保障する労働法制やEU基準(例えばEU労働時間指令、2000)などがあるわけで、短時間で縮まるような訳でもない(らしい)。奥が深い。
問題は、一般的な年間労働時間差でも、欧州と日本では400時間=10週もあることが問題となっているのに、大学の研究者の場合は、それをはるかに上回る。これは、一体どうなっているのだろうかということだ。
ネットで検索してみると、各地の大学職員組合の見解や文献的資料は、次が詳しい。
http://labor.main.jp/daigakumondai/labor-problem/sairyouuroudou.html
また、大阪大学の事例には次のことがある。http://www.chem.sci.osaka-u.ac.jp/~nagano/sairyo3.htm
今は、東海地域の研究大学に転じられたが、最近まで大学同僚だった方のブログにもこのことは登場する。僕は、そのシャープな分析と批判精神の躍動感に共感することが多い。http://nobusan.exblog.jp/tags/%E8%A3%81%E9%87%8F%E5%8A%B4%E5%83%8D%E5%88%B6/
前にも書いたが、大学においては、自然科学系2843時間(保健系3052時間、以下理学2926,工学2746,農学2788)、人文社会系でも2444時間(文学2375,法学2652,経済学2431)教育学2527時間という数字が出てきていることは、看過できない事柄だ。(平成14年、2002年、文科省調査「大学等におけるフルタイム換算データに関する調査」(承認統計)科学技術・学術政策局調査調整課)
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/15/11/03110601/001/003.pdf
K.マルクス(1818-1883)
「地獄への道は、種々の良き意図で舗装されているのであって・・・」
向坂逸郎訳(1969、岩波文庫)31頁。
ダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri)1265-1321
『神曲』
地獄の門に書かれた一文「汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ」
「地獄への道は、いろいろな良い意図で舗装されている」(k.マルクス、第1巻第3編第5章第2節「価値増殖過程」251頁、大月書店)というが、裁量労働という名の過労死世界への道も、どこか善意の強制がつきまとう。いわく、世界的水準の拠点形成、極めて独創的で優秀な研究の創出、SS的評価の創造云々。そんなに、世界水準が安売りされると、世界水準が泣くというものだが、いろんな大学の中期目標・中期計画にはそうした言葉のオンパレードだ。言葉のインフレはまだ良い。しかし、単一尺度にもとづく競争の組織化と、そのレース参加を強いる「いろいろな良い意図」による過労死的労働の安売りはいただけない。僕には、そういうことの資格も意欲もないが、優秀と言われる人ほど「地獄への道」が好きなようだ。そのことが、この問題の解決を遅らせるもう一つの要因だ。恐らくは、人間的な良き生というものをどう考えるかという問題なのだろう。心して考えたい問題だ。
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