今年、賀状を出して、宛名のFさん、Nさんのご家族(ご遺族)の方から、少し時間がたってから、それぞれに昨年永眠しましたとの悲しい返信を頂いた。昨年末には、事前の喪中欠礼をいただいた一定数の方々の悲しさも共有したが、(今回は、一昨年連れ合いと僕の双方の父と義母の逝去による喪中欠礼があっての2年間のブランクがあったせいもあるが)、今回のような、僕の大学時代に指導したゼミ生(卒業生)のFさんや、青年団で親しくつきあったN君は,僕よりもずっと若い人たちだ。どのような事情によるものかは、詳しいことは、葉書には書かれていないので、余計悲しみも加わる。何があったのだろうという思いと、僕が彼らと関わった期間でのいくつかの場面などを想いだしたりした。昨日は、その二人のご遺族に弔意の手紙を書いた。また、まだお悲しみの中にあるかと賀状を遠慮したのだが、恩師のO先生の奥様から賀状を頂いた。(僕の旧住所に送られて郵便局から戻ってしまい,再度お送りになったものだが)それについても、昨日手紙を書いてお出しした。
寝る前の枕元の読書で『悼む人』を昨夜読了した,今年の直木賞受賞作。天童荒太の7年にわたる時間と精神が投入された渾身の作品。朝日新聞に、そのインタビューが載っていたが、あらためてこの本を読んでみてその気持ちは伝わってきた。この時代には、自然死以外に、様々な暴力や戦争による犠牲、あるいは、解雇・失業やいじめ、人権無視、あるいは家族のきしみ、病苦などによって自死を余儀なくされた方々、あるいは重い病気、交通事故、不慮の事故、などによって多くの人が毎日亡くなっていく。しかし、今の時代は、新聞に日々出ている死亡報道のように、無機質的な情報の洪水が多い。近年の戦争や事件の報道でも、メデイアの視点には、そこで命を失っていく人のかけがえのない人生や周りの人間関係にまで想像力を働かせたものは少ない。人の人生や命がかくも軽く扱われている時代だからこそ、一人一人の人生と、その重みを受け取め、悼む気持ちにならなくては、真に生きたことにはならない。一人一人が、誰に愛され、誰を愛したのか。他者からきちんと理解されたのか、あるいは他者をきちんと理解したのか。『悼む人』には、そういう深い問いがある。亡くなった方々に対して、そういう想像力をもって、その人生を受け止めることこそが、関係した者の責任であろう。もっと敷衍させれば、この野蛮な時代の思潮に対して、それを根底から批判し、対抗する平和の思想なのかも知れない。そんなことを考えさせられた。
『悼む人』が文学的表現であるとすれば、この社会の今の時代の歪みを正確に社会科学的にとらえる作業がもう一方では不可欠だ。この分野での地道な発信をしている一人が、岩田正美氏だ。その市民向けの分かりやすい書物は、下記の二冊だ。
『現代の貧困』:
「格差社会」論は一昨年から昨年にかけての時代を切り取る表現で流行したが、岩田氏は、資本主義社会では、格差があって当たり前、それが時代の発展を進める重要な契機で、必要悪だと開き直る「勝ち組」の人々に対して、格差一般ではなく、この社会には、許されない格差というものがあり、それこそが貧困であり、人間の尊厳を侵すような貧困は許されてはならない。貧困は常に再発見され再定義されていくものであることを明確に論証した。それが『現代の貧困』という新書。
『社会的排除』。
もう一冊は、近著の『社会的排除』。僕も、「社会的排除」については、教育学の視点から論じたことはあるが、この本はそういう分野を含めて、幅広い領域をカバーし、同時に諸外国の議論の相違(フランス、イギリス、EU、米国などと)などをコンパクトに紹介し、かつ貧困、差別、孤立などとのとらえかたなどとの異同点も検証している。書き方は極めて平易だ。
こうした議論を受け止めての自分の分野での突っ込んだ論究、これは僕の課題だ。
日本でも貧困の問題がありますか?!
投稿情報: 李 | 2009年1 月23日 (金) 22:48
グローバル社会の中で世界に共通する貧困(その定義、基準は色々な議論があります。またアフリカなどでの絶対的貧困ともいうべきレベルの人々は日本では少数かも知れませんが。)は存在します。日本では、さらに労働法制改悪によって不安定就労を余儀なくされたワーキングプアというべき人々が90年代後半以降激増しました。企業の社会的責任性が問われています。またそれを守らせる世論とそれを受け止める政治が必要でしょう。
投稿情報: 北の光 | 2009年1 月24日 (土) 09:20