社会教育研究全国集会から戻ると、今度は、SG大学での公開講座が控えていた。同大学のTさんに依頼されていたものである。
僕の話の前に、S市の子ども未来局のNさんが報告され、僕は、それを受けての後半の担当であった。受講者の感想文を読むとそれなりに、手応えがあり、伝わるものはすべてではないにしても、そのいくらかは聞き手に伝わったようだ。
内容的には、僕の研究的専門というよりは、S市の「子どもの権利条例」制定およびその後の制度の実質化・普及・モニタリングにかかわるNGOである「子どもの権利条例市民会議」(こどけん)の共同代表として、市民の目線でアマチュアとして、批判的協力、協働、共創の活動を続けてきた立場からの、そして自分なりの制度システム論、教育法研究を踏まえての、この間の制度を形骸化させないための、智恵と力と協働の実践・理論報告である。
僕の分野の研究者には色々なタイプがいる。(またいてよいのだが。)
例えば、
①現実には少し距離を置いて、文献・資史料を基礎に机上で理論的な構築を専門とし、アカデミックな学会での活動に足場を限定するタイプ(歴史研究、言説研究、理論研究などに多い)。
②国内外の現地にフィールドワークに出かけて調査結果を理論的に整理をすることを専門とするタイプ(運動には必ずしもコミットしない場合も多い)。
③臨床的な対人ケース援助や支援に自らあるいは協力者を得て継続的に関わってそれを記録化・理論整理していくタイプ。
④権力の政策に批判的ないしは従属的にあるいは寄生的に、そして立場的には、抵抗的ないし批判的解説的に、あるいは政策に寄り添い、誘導推進する(立場の4タイプ)といった、その政策研究を価値的ないしは非価値的(という名の体制維持的政治立場)に提言ないしは分析・診断する(シンクタンク、あるいはコンサルタント的に)研究。
⑤教育実践・教育文化社会運動に内在的にコミットし、その同伴者たちと協力・協働しながら実践的・理論的に事柄を考えていく研究(比較研究、歴史研究、現実実践的運動的)タイプ。
はたして、僕はこれらのいずれを選択し、歩んできたのか。多分に、①に惹かれるものがありながら、現実変革・批判を前提として、②から⑤の研究のどこかに批判的に関わりながら、そして恐らくは、⑤の立場で、実践にコミットし、運動に関わり、その足場からアカデミック世界を批判的に見つめ、また実践世界にも批判的に対応してきたのだろう。浅学非才、非力でありながら、現実を変えるべく、自分なりのスタンスで悪戦苦闘してきたのだろう。(これは、多分に自らを過大評価しているのかも知れないが・・・)
したがって、余分な回り道や、表面に現れない膨大な時間をかけつつも生産力の副産物(文献、論文等)において、必ずしも多くない結果がつきまとった。あるいはあえて書かずにきたことも多い。また、自らが関わっていないことに対して安易に論評したり、実践にかかわらずに実践を裁断することを、恥と考え、戒めてきた。また略奪的研究(実践世界や他の政策結果を利用し、しかしいったん書いた後はあまり継続的に関わらない)もしたくないと考えてきた。それらにおいて、どれほどまでに徹底できてきたかは、自信のないことも少なくないが、気持ち的にはそのようにしてきた。また、「こどけん」のように、今の自分の研究にダイレクトにつながらない分野の実践においても、少なからぬ時間を費やしてきた。(これまで何と多くの実践運動に関わってきたことか)
だから市民運動的な、在野、アマチュアのスタンスでもあるのだろう。(サイードや高木仁三郎、池内了のアマチュア論に共感を覚えるのもここにあるのか)
とはいえ、その目線からは、切実な関心をいだく市民と同じく、研究者のホンモノ、ニセモノの判断の眼力は磨いてきたつもりだ。
時にイヤになるのは、書かれた作品は立派でありながら、接してみると案外、エゴイステイックであったり、功名心、野心(アンビシヤス)が臭ってくる場合である。
「たそがれ清兵衛」とまではいかなくとも、その精神を煎じて飲みたいものだ。
茨木のり子のエッセイに、山本安英についてふれた「品格について」がある。その小品は、そのような「品格」のレッスンを教えてくれる。
そして問いはブーメランのように戻ってくる。
あゝ
おまへはなにをして来たのだと・・・
吹き来る風が私に言ふ・・・
(中原中也)
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