この週末にかけての若干の備忘録
7月1日
午後は学部ゼミ。
夕刻は、土屋トカチ監督を迎えて、職組委員長のKさんとのトークを含んだドキュメンタリー映画「フツーの仕事をしたい」の上映であった。(この日は、午後に、授業の中で討議を兼ねた上映があったようだ。komさんが尽力されて、その副産物が、夕刻の上映でもあった。)当日は60名近い参加者。下記のurlに関連情報がある。
http://nomalabor.exblog.jp/i9/
映画「フツーの仕事をしたい」に登場するkさんが体験した内容は、シンボリックである。多分、このような人権無視の労働現場は、日本の各地に潜んでいると思われる。
Kさんは、日によって異なるが、朝の4時に仕事に出て、帰宅が夜の11時過ぎ、そうした日々が毎日続き、1カ月に500数十時間の労働を強いられていた。一日に直すと、平均6時間弱程度しか、食事、睡眠、入浴他の人間的再生産の時間すらろくにとれないところまで追い詰められて、顔色は土気色で生気がない。そして、そのことがおかしいとも思わされない職場構造であった。企業の労務担当には、社長と親しく、社外のヤクザに近い人物が配置され、執拗に人間的生存が脅かしていく。体をこわすほど働いても手取りが20万円ほどの賃金となる完全歩合制システム。勢い、過積載で違法の運送業務となる仕組みがあり、同業では事故を起こして命を失う事例も出ていた。それら一切を黙認する大手企業の体質。その上、社会保険、医療保険、失業保険その他の権利も守られていない、二次下請けの現場である。
kさんはこのことのおかしさに気づき、ふとしたことで眼にしたちらしの中に書かれてあった連帯ユニオンに電話して相談をする。そして、組合に加盟する。そこから、フィルムは回り始める。時間をかけた人権無視、違法雇用告発の闘いの記録だ。具体的に、フィルムの中では、セメント運送運転手のkさんの組合加盟に至る経緯、それへの脱退強要の脅しの場面(Kさんの実母の葬儀場にまで暴力的に押しかけてきた)、解雇強要へのシーン、そして全国建設連帯ユニオンの支援を受けながら、人権と誇りを取り戻していく闘いのプロセスが、同時時間進行のように描かれていく。
ようやくにして、勝ち取った成果は、8時間労働制、残業手当の支給、有給休暇、社会保険、雇用保険、などのささやかな「フツー」の労働条件だ。しかし、これは組合の運動と本人の自尊心と勇気がなくては実現しなかった事柄だ。
土屋監督は、1971年生まれ。監督自身が解雇された経験を有している。解雇撤回闘争で得た和解金で購入した映像カメラから始めた記録づくりが、今の仕事の出発点になったフリーランスの映像作家である。労働組合の否定的イメージの偏見があったが、この活動を通して、本来のユニオンの原点を見つめ、人間の尊厳の根っこを考えてきたという。
H大職組委員長と土屋監督のトークは、非正規職を蔓延させ、それをコストカットとして当然視するのは企業社会のみならず、大学も同様の現実になってきていることをも浮き彫りにさせた。同時に、人間の働き方について、排除されたり尊厳を奪われるような働き方について、声を上げていかない限り、事態の改善はないことを明白にした。その場合、立ち上がった本人の意思とそれを支える組合(UNION)の役割が大きな位置をもつことをあらためて再確認したことは大きかった。しかし、このことは、会場にいた学生たちにも十分に伝わったのだろうか。土屋監督からは、映像表現が果たす記録性や証言性、芸術的昇華の問題、そして肉声のもつ力、人間の変化が眼に見える形で現れることを示すことなどの意味を聞けた。同時に、ドキュメンタリー作品の立場性(中立などあり得ない)も証言されていた。この作品が海外でも評価されることになった契機には、作品をみた映像メデイア関係者たちの財政的精神的支援と協力や、彼らからの世界的に共通する普遍的な課題に果敢に取り組んだとの評価があったことも大きかったようだ。海外の映画祭で、この映画を見て、涙を流し、共感する人々が多くいたという紹介に、僕も心を動かされた。なお、若者論として、アキハバラ事件、マツダ工場での殺傷事件などの加害当事者の行き場のない怒りの根っこにあるものをどうつかむのか、同時に、その犯罪性の問題を許さないというスタンスを、区別と関連の中で明確にしながら、互いに、この現実をどのように受け止め、理解し、表現していくのかなど、重要な論点があったように思われた。
なお、トークに関連して、会場から質問も3人ほどあり、これらの発言への応答もあったが、ここでは省略する。
「この現実、だれのせい?」
問いかけられたテーマは重い。現実を見つめ受け止めるための、リアリズムとヒューマニズム、笑いと怒り、そういうものを考え直すことを僕もあらためて思った。そして、人間的生存以下の労働実態は、何も遠い話ではない。僕の生きてきた時間の中に関わってきた人々を探れば容易に見いだせることだし、僕自身の血縁的つながりの中にも容易に見つけることができるリアルストーリーでもある。問題は、それをどう自分自身の主体的な生き方のなかで、解決のための思想とアクションとして深めるかであろう。
p.s.
過日の報道では、年間1億円以上の収入を得ている企業トップは300人近い数だ。ニッサン、ソニー、大日本印刷などのトップは、7-8億円、ニッサンのカルロス・ゴーン氏は8億9千万円だ。(彼は別にルノーのトップでもあり、そこからも収入がある)
それでも欧米と比べれば多いわけではない、当然だという。誰かが試算したが、ゴーン氏は、一日約244万円の収入、月収約7560万円だ。上記のKさんの組合で闘う前の賃金月収20万円の378倍という額だ。
資本主義だから格差があって当たり前というが、高額収入経営者の企業で、平気で季節労働者の首切りを行い、非正規雇用とワーキングプアの蔓延を許すメカニズムを、人間的センスの問題として、当たり前というかどうかは、別の問題であろう。
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