長田弘の作品に『深呼吸の必要』(1984)という詩集がある。同名の映画や楽曲もある。
上記本の「後記」には、長田は次のように記している。
「言葉を深呼吸する。あるいは、言葉で深呼吸する。そうした深呼吸の必要をおぼえたときに、立ち止まって、黙って、必要なだけの言葉を書きとめた。そうした深呼吸のための言葉が、この本の言葉の一つになった」
同じく、長田弘の『世界は一冊の本』(1994,2010)の中に、次の一節がある。
「・・・なぜわれわれは、じぶんのでない
人生を忙しく生きなければならないか?
ゆっくりと生きなくてはいけない。
空が言った。木が言った。風も言った」
(長田弘 人生の短さとゆたかさ)
また、同詩集に「立ち止まる」という作品がある。
立ち止まる。
立ち止まる。
足をとめると、
聴こえてくる声がある。
空の色のような声がある。
「木のことば、水のことば、
空のことばが聴こえますか?
「石のことば、
雨のことば、
草のことばを話せますか?
立ち止まらなければ
ゆけない場所がある。
何もないところにしか、
見つけられないものがある。
日々の営みには、競争社会のせいか、前のめりになってひたすら急ぐような気配がある。そうした風潮に知らず知らずに僕らはドクされている。
昨日、転編入試仕事を終えて、帰宅途上の書店でふと手にした後藤正治『清冽- 詩人茨木のり子の肖像』(2010)を読み出した。これまで、幾冊もの茨木の作品を読みながら気づかなかったことや、詩作の背景にある世界を知って、あらためて「倚りかからず」の意味や 「Y.Yに」と題した詩の一節を思い返した。(上記の長田の作品もその一連のぼくの ふりかえりの中で浮かび上がった感慨だ。)
「 Y.Yに
大人になるというのは
すれっからしになることだと
思い込んでいた少女の頃
立居振舞の美しい
発音の正確な
素敵な女のひとと会いました
そのひとは私の背のびを見すかしたように
なにげない話に言いました
初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人と思わなくなったとき
堕落が始るのね 墜ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました
私はどきんとし
そして深く悟りました
大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない 挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子供の悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと・・・・・
わたしもかつてのあの人と同じくらいの年になりました
たちかえり
今もときどきその意味を
ひっそりと汲むことがあるのです」
(茨木のり子 『鎮魂歌』1965所収)
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