11月後半への突入
合研集会後は、平常の日々が続いた。例によって備忘録。
11月15日(月)
午後は、院生対応、夕刻は今月の英国調査の中間総括と方向性討議。
11月16日(火)
午後、部局校務委員会(内容は書けない)、夕刻は教職関連の講義、その後部局に戻った後は、「こどけん」11月例会。国連子ども権利委員会の日本への勧告(2010.6)の、読み合わせ(第三回目)など、討議盛んであった。散会は21時過ぎ、研究室に戻り、いくつか作業。帰宅は23時近かった。
11月17日(水)
午前は、院ゼミ。午後は、雑務処理が続いた。
11月18日(木)
午前は、いつもより早くした修論指導、昼休みにパレステイナのRさんと調査の打ち合わせ。午後から夕刻は、学部ゼミ。4年生は卒論が間近に迫り、やや余裕がなくなってきている。(これは、修士2年の諸君も同じ)
11月19日(金)
午後は、院生の修論相談と指導。夕刻は、「子ども 教育文化道民の会」の事務局会議。1月に行う予定の同会の世取山洋介氏の講演会とそれに関連した子どもの権利関係の議論を、具体的な事例に即して行う。事務局のYさんの日程案についても討議。散会は、21時半。帰りの地下鉄で、「自由学校・遊」の事務局のKさんと偶然会う。久しぶりだ。日曜日に創立20周年記念事業とのこと。
11月20日(土)
どうにも体がだるい。気力も失せて、力の入らない一日だった。
11月21日(日)
図書館の関係での、講演会と学習会。東京からYさんがやってきての講演。会場は、道青年会館ホール。
札幌清田図書館のMさんのよびかけもあった
ものだった。
図書館の指定管理者制度を含む公共性と市場化にかんするYさんの講演会「生きづらい時代だからこそ図書館を生かそう」である。
その後道立図書館のSさんに道内の図書館動向を報告頂き、次いでこの間の道立図書館の指定管理者制度反対の動き(北海道立図書館を考えるみんなの会)をHさんに報告して頂いた。
Yさん(思わずGチャンと僕は言ってしまうのだが)は、図書館界で、貴重な社会教育も視野に入った研究者であり、友人でもある。
報告者の内容には、それぞれに貴重な情報と示唆があった。
参加者は、旭川、室蘭、帯広、小樽などからの参加者を含め、30数名であった。
この日の全体を通して、指定管理者や職員の非正規化、電子図書、情報の商業化の流れの中で、図書館の公共空間と市場化の拮抗を巨視的かつ具体的にとらえつつ、展望を拓こうとしたものだったといえるだろう。
11月22日(月)
大学に出て、校務や相談などで時間が過ぎる。
日中は南風が吹き暖かかったが、夜になって冷え込む。
11月23日(火)
勤労感謝の日という祝日。
祝日ということで、少し時代を感じ取る努力をした。
この日、昨年に続き、学生諸君が「就活くたばれ」デモを行ったようだ。学業に専念できず、企業の意のままにコントロールされる「就活」について、その弊害はまだ認識が不十分との抗議である。たしかに、3年次からでも遅いとされる早過ぎる就活は、本来の働き方や大学と企業との正常な関係を損なう。就職氷河期再来の中で、浮き足立つ流れに学生諸君から異議申立てがあることは悪くない。支援しよう。ただし、高校卒業者の状況などは、このような声をあげることすらできないほど、就業保障が崩されている。このことへの視点を持って欲しいとも思う。
大企業は法人減税と非正規雇用、中小企業への圧力によるコスト削減などで溜め込んだ内部留保金を、雇用と労働者の生活改善の賃金保障に回さない。国民の生活は悪化というか、経済も、政治も、劣化するばかりだ。身の回りには、閉塞感が息苦しいほどに強まっている。「生きづらさ」は共通の実感だ。
気になるのは、身の回りの心身の失調を訴える人々の増大、他者への攻撃的風潮と自己責任・自虐の同時進行、面倒くさいことにかかわらないという「ぼくらのリアル」主義の蔓延だ。そうした風潮に風穴をあけるべく、声をあげている僕たちは、かなりの程度、そうした世論操作を意図している勢力からは風圧を受けることになる。
素人意見に、少し話題を加える。日本の経済は、今や輸出依存型構造も変容を遂げ、生産拠点を多元的にもつ多国籍企業展開となっている。主要産業は、農業や中小企業などの切り捨てには、ドライに冷徹に資本の論理で動く。この間の、そして、ためこまれた利潤の一定部分は、投機的市場において、投資家集団やドル安政策によって米国などの資本に吸い上げられていく。政財軍の一体となった米国の世界支配戦略に、骨の髄まで組み込まれた日本の資本と政治システムは、致命的なほどに従属的であり、「死に至る病」におかされている。ベックの指摘した「危機」社会の病理は、東洋のこの小さな列島で、深刻度を増している。
それでは、希望はどこにあるのか。
近年の中南米の自立的政治の兆しと展開などは希望の持てる材料だが、それ以外の民主主義の発展は、一進一退でもあり、時には後退も見られる。どれくらい続くかわからないが、やや厳しい時代になってきているように僕には思える。
素人目からも、中東及びアフガンの事態は、米国中心の多国籍軍とイスラム世界との戦争状態のままだ。中国のめざましい経済発展は他方に、国家社会内部に大きな矛盾を抱え込んで、政治ステムは危機を蓄積してきている。朝鮮半島北部の政治システムは、正常とはいえない事態を、挑発的な冒険によって延命させようとしているが、これは危険な火種を火薬庫にもつような事態だ。(23日に起きた、北朝鮮の韓国の島への砲撃は、深刻な暴力発動だ。誰もこのような暴挙は支持しない。)
同時に、ロシアや米国、中国の大国的領土拡張ないし、支配戦略の動向も平和に逆行する動きだ。
日本は、小国に徹し、平和に徹すれば良いのだ。
しかし、日本に限らず、多くの国々では、平和と非暴力、対話と相互理解を求める声は「リアルポリテイックス」とメデイアの暴力の前に、とぎれがちだったり、かすれ声になってはいないだろうか?
p.s.
BS世界のドキュメンタリーという番組で、シリーズオバマの課題を放送している。たまたま眼にしたのは、「インティファーダ NY(ニューヨーク) ~アラビア語学校開設の波紋~」であった。イスラム世界の言語、宗教、文化への敵視のまなざしを向ける人々の対話なき憎悪は、この10年の強化された政治支配の産物でもあるが、痛ましさと恐怖感を感じた。
9.11以降の米国の社会は、断裂度をまし、息苦しくなっている。前にも紹介したブッシュ・チェイニー時代の、テロリスト撲滅の名目での、憲法条項をも無力化するような、取締体制(盗聴、ネット、カメラ監視、令状なき拘束等々)とフォックステレビやニューヨークポストなどの右翼メデイア攻勢は、ターゲットを拡大している。上記番組は、その一端を示していた。もちろん草の根の民主主義運動は、消えてはいない。しかし、それらはマイノリテイ化されようとしている。ニューヨークですら、そうした事態が進展するならば、南部や中西部はどうなるのか。米国民にとって、残念ながら(予想のとおりというべきか)、オバマの「チェンジ」は失望と落胆の代名詞になっている中での事態だ。オバマの限界を超えた、民主主義の再生が必要だ。しかし、その力はまだ弱い。
憂うべき状況というべきだ。
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