年始期間のメリハリもなく1月4日には講義も再開。この地は、小中高などの学校は、冬休みも長いが、大学だけは早い。しかも、セメスター内15回授業確保(大学設置基準改訂の影響)とかで、正月明けがさらに早くなった。良くも悪くもかつての慣習法的のどかさや大らかさがなくなり、近代的ビジネスモード(モダニテイ)が大学を覆うようになってきたといえるだろう。しかし、これは、言葉の意味での「高度近代」であり、現代の大学を覆う「後期近代」にはミスマッチな対応ともいえる。グローバル時代の大学が抱える閉塞感や排除的競争、個人主義的「他者性」のもたらす孤独や無力感の蔓延に対して、「ワールドクラスの大学」をめざしての競争力拡大と質保証をかかげるだけでは、学びの場を退屈な競争の「戦場」(battle field)に変えるだけの話だ。一握りの「勝者」に対して、累々とした「敗者」「死者」を生み出してどうしようというのだろうか。
ところで、「後期近代」(late modernity)という議論があるが、それをどう理解するかは単純ではない。
第二次大戦後の「高度近代」(high modernity)がフォーデイズムを基調とした労働環境、家族とコミュニテイの安定性によって彩られていたのに対して、20世紀後半から21世紀初頭の後期近代は、バウマンの言うように「液状化する近代」(liquid modernity)であり、不安感と不快感による眩暈(めまい)をもたらす。社会的・経済的不安定、境界の無存在、不寛容社会とアンダークラスの発生、排除と暴力がそれらを加速する。このような理解を提示したのは、「後期近代の眩暈」(The Vertigo of Late Modernity、2007)を著したジョック・ヤング(Jock Young)である。
ヤングの前著は、「排除型社会」(The Exclusive Society、1999)であった。理論的背景にあるのは、新自由主義、市場原理主義、グローバリズムに対する独自理解である。「後期近代の眩暈」では、排除型社会の広がりによって、不安が不寛容に、排除が犯罪に転化する契機を、ヤングは問題にし、同時にグローバル化は排除のプロセスと同時に過剰包摂をも生み出すとする。媒介的コミュニケーションや労働力の移動、文化・価値の均質化は、一方に文化的統合力の拡大をもたらし、他方に貧富差や多国籍企業展開は、政治的・経済的統合力の収縮をもたらす。この軋轢の拡大が個人主義的「他者」を生成するというのだ。
これを解決するためには、二分法/二項対立的問題把握では無力というのがヤングの立場だ。従来型の福祉国家の再建でもポストモダニテイ、多元主義でもだめなのは、二分法/二項対立の枠組みを支える結果にしかならないからだという。
しかし、本当にそうなのか。
議論を日本という場に戻すと、元々弱かった福祉国家レジームをさらに収縮させたのは、この間の新自由主義的構造改革政治であった。
これに対して、福祉国家のありようを、北欧型モデルで展開する議論もあるが、今日の深刻な問題の根幹への批判性が弱いようだ。しかも、どちらかといえば、そういう議論も、増税論などの政権政治に利用され包摂されているだけに、その限界性を明らかにする必要がある。
しかし、では、ヤングの言うような「変形力ある包摂」という議論が解決の根本的道筋なのか。
僕には、まだ疑問符が強く残る。現状を打開し、未来を築いていく新しい枠組みとしての「福祉国家」レジームは何なのか。このことを、深く考え、探求し、学んでいくことが大事な年になりぞうだ。
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