9月4日(土)
朝6時過ぎに出発。この日は、モンゴルの自然との対話というか、郊外の自然空間、遊牧民族の生活、チンギスハン歴史民俗村の見学、チンギスハンテーマパークの小遊などでのイクスカーションである。いずれにしても、モンゴルの人と生活、国土や民族の多様性を知る上では、まずは「百聞は一見に如かず」である。(モンゴルでは「千聞は一見に如かず」というらしい)
ウランバートルから東北70キロメートルのテレルジに向かう。途中遊牧民のゲルに行く。ドライバーは、車の事故や、安全、連絡を考えて、無理してJさんの兄のBさん(食料省の公務員である)にお願いすることになったらしい。その分、Jさんは気楽な状態になった。
Bさんも日本語を話す。兄妹はモンゴル語で会話し、僕とは二人とも日本語での応答となった。ウランバートルを少し離れると、道(相当に悪路である)の両側には、民家も何もなく薄く緑なす平原が広がっている。時折、牛、馬、羊の放牧風景が現れる。この国の人口は約280万人だが、牛だけで4400万頭いるという。(昨年冬は異常寒波で990万頭が凍死したという)途中旧ソビエト時代の駐留軍基地が荒れ果てた残骸を残している。またテレルジ近くになると、いくつものゲルのツーリストキャンプが現れる。最初にBさんの友人のゲルを訪れ、ヤクのミルク、バター、ロシアパンの朝食をいただく。
おいとまするときに、日本から乗馬ツアーにきた女性とインストラクターを途中の草原まで乗せていく。次は、ウランバートルの水源の一つである、トウール川の源流近い場所の水瀬を見に行く。せせらぎの音が心を平安にしてくれる。空気がおいしい。途中、ツーリストキャンプの一つにトイレ休憩で行くと、ゲルの近くで遊んでいる愛くるしい2人の兄妹が日本語でコンニチワという。聞くと、日本人の父をもつらしい。父親は今、日本に戻っていて、来年日本に行くという。
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途中食堂で、軽い昼食をとる。チンギスハン歴史民俗村は、広い敷地内に、いくつもの施設が点在している。防衛砦の復元ゲル(30キロメートル毎にこの砦を築き、勢力を拡大していったのである)、工芸村、縫製村的なゲル施設、記録・書家的なゲル(モンゴル語縦書きで僕は自分の名を墨と筆で書いてもらった)、シャーマンの祈祷が行われる儀式ゲル村、チンギスハンの王族ゲルなどである。
それぞれ、草原のアップダウンの険しい道を、日本製四輪RV車を、Bさんは巧みに動かしていく。それぞれの復元ゲル村には、説明役がいて、丁寧に応答してくれる。説明する人々は、それぞれ民族が違うような人が働いていた。
時間が随分とかかったが、次は乗馬とラクダの体験試乗である。僕の体重で申し訳ないと思ったが、遊牧民の方が支えてくださって何とか乗る。よく言われるように、手綱が難しいし、体重移動が難しい。ともかくアイポイントが高い。やあ楽しい試乗であった。
案内役のモンゴル人院生のJさんも当時の衣装をまとってみた。
チンギスハンの王族ゲル見学を終えて、帰路につく。途中、遊牧民のゲルに再び出向き、馬乳酒やヤクのバターを頂く。日本の白鳳の訪問があったらしく、写真が飾ってある。
最後は、チンギスハンテーマパークだが、民間資本(個人オーナー)立で、未完成でオープンしたらしく、廻りに建設途上の施設がある。地上40メートルの馬にまたがるチンギスハンの巨像である。ブーツの高さが4メートルである。内部にエレベータと階段があり、馬のたてがみ(?)あたりに立つことができる。360度のパノラマビューは壮観である。
残りは、ひたすらウランバートルを目指しての帰路ドライブであった。
ホテルにたどり着き、この日は、埃にまみれ、疲れたこともあり、ホテル(日系ホテルの売り出しシンボル)の大浴場に身を沈める。
夕食は、中華レストランに行ったが、やはり量が多い。一部持ち帰りにしてもらった。
モンゴルのいくつかの顔のそのひとつを、ちょっぴり体験した一日だった。
9月5日(日)
午前、午後と調査の記録化や校正仕事を行い。2時半頃に、Jさんと出かける。ウランバートルの寺院地区の古刹(移築してきたらしい)に行く。チベット寺院の趣が感じられる。内部に仏陀の立像があるが、撮影は禁止である。厄払いの仕方は、日本と少し異なる。内部には多くの小さな仏像が(日本の檀家の戒名札のようなものか)壁一面に、何段にもなってびっしりと並んでいる。それぞれ微妙に仏像の顔の表情が違うようにできているらしい。寺院の庭には鳩が大変に多く集まっている。古老が、えさ(麦のたぐいか)を売っていって、多くの人が与えている。
寺院地区の手前のバラック施設と後方のマンション群。貧富差は、ウランバートル地区も激しい。
ウランバートル西側をのぞむ。
次は、ウランバートルの高台に立つ戦勝記念塔である。ソ連軍の建てたもので、塔の内部に描かれた絵は、いわゆるプロレタリア美術によくあるパターンだ。これを今のモンゴルの人々はどう受け止めているのか?9月2日には、戦勝記念日の行事が国内各地であり、ウクライナ料理店では、胸にたくさんの勲章を付けた高齢の元兵士たちが食事にきていた。
戦勝というのは、日本へのという意味であろうか。戦勝記念塔の眼下には、トウオール川の外側に高級マンション(2008-9年の経済危機で建築途上で中止の物件も多い)の建築群などが山のすそのまで広がっている。国立農業大学も視野に入っている。
その後、若干の買い物をした後(ソ連の影響下時代の国立大店が前身の店)、モンゴルの歌舞劇を見に行く。伝統的な歌、踊り、楽器の合奏、などでこの国のエッセンスが詰まっている。1989年出発のアンサンブルである。草原の雰囲気、中国と朝鮮とも通じながらそれとは異なる独自な音感、またスロートソングといわれる喉の共鳴を利用した独特の歌唱など、レベルの高いパフォーマンスだった。客の殆どは、外国人である。
終了後、興奮の持続するまま、夕食へ。CITY NOMADという前に行ったことのあるモンゴル料理店の姉妹店である。食事の間で、この日は、ライブをやっており、4人の若者の歌と演奏は、これまた現代の中に通底するモンゴル人のリズムと音階を伝えてくれる刺激的な演奏であった。4人の若者の顔つきと声は、それぞれに違う民族の混じり合いを実感させてくれるものだった。ここでも、客の多数派は、外国人である。この音楽も、ダイレクトに心に響くものがあった。
終了後、ホテルに戻り、明日の帰国に向けて準備の開始である。
9月6日(月)
4時半にホテルをチェックアウト。院生のJさんのお兄さんのBさんが送ってくださる。途中実家にて待機していたJさんを拾い、空港へ。さすがに早朝で車は少ない。
空港にて、お二人と別れる。jさんは16日まで残って追加調査をすることになった。
定刻の6時55分に、搭乗開始。ウランバートル空港を後にして、成田乗り換え新千歳空港への長旅だ。
月並みな表現だが、飛行機は、雲海を越えていく。
隣席は、モンゴル人の若い母親だった。赤ちゃんを寝かせる簡易ベッドを客室乗務員が取り付けた。安らかな寝顔だ。
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