4月3日(土)
セミナーの公式日程が終了し、午後の後半からは、イクスカーションに行くことになった。
まず最初に行ったのは、個人立の博物館。チャムソリ(蓄音機)博物館。そこには、発明王・エジソンの発明品の驚くべき多くの種類と量のコレクションがあった。蓄音機、ミュージックボックス、オーデイオ、電気自動車、etc,etc.世の中には、そういう執念をもって集め展示する人がいるのだと驚く。
エジソンの発明は、その執念ともいうべき持続力とアイデアを形にする能力の高さに依存するものだったのだろうか。展示品を見ると、ありとあらゆることに彼は関心をもっていたようだ。そして、電球に始まり、蓄音機、トースター、その他・・・・家電製品の多くが彼の発明に関係しているようだ。彼は、天才に多いとされるが、一説には、アスペルガー症候群でもあったとか・・・
博物館を後にして、韓国の儒教の大家、李珥(イイ)=栗谷(イルゴク)の烏竹軒(オジュッコン)や上流ヤンバン(両班)の屋敷、船橋荘(ソンギョジャン)を訪れることになった。韓国の紙幣の5000ウオン、50000ウオンには李珥(イイ)やその母親が肖像画となって印刷されている。この日は風が強いが、温度はそれほど寒いわけではなかった。
李珥(イイ)=栗谷(イルゴク)の母 ,申師任堂(シンサイムダン)の像が立っている。彼女は、韓国の教科書に登場し、知らない人はいないらしい。儒教的母親像の理想モデルとされているが、現代の女性からはどう見られているのだろうか?この質問はこの日は、遠慮したので、機会があれば尋ねたいことである。
背景の松林と建物が良く調和して気品ある屋敷だ。船橋荘の名の由来は、かつては近くまで湖がきており、船で屋敷に着けたようだ。
船橋荘の次は、烏竹軒(オジュッコン)だ。韓国最古の木造住宅で、600年を越えている。
イクスカーション後は、夕食会。歌や当意即妙のスピーチも出て和やかな交流となった。
ホテルに戻ると結婚式のパーテイ客が多い。新婚カップルはこうした飾りの車で空港に向かう。
この日の遅くに、公州大学のヤンビョンチャンさんたちとは、お別れを告げる。
4月4日(日)
それぞれが、帰るべき所に向かう朝になった。
僕は、飛行機の関係でソウルにもう一泊することになっていたので比較的ゆったりできた。中には、早朝3時に出たグループもあれば、飛行機の関係でのバスの都合で9時のグループなど多様であった。
僕と、Sさん、Nさん、はチェドンミンさんの車で、イゴクの書院、松澤書院に寄ってからソウルへの移動ということになった。
ひなびた場所にひっそりと松澤書院はあった。アカデミーの役割は19世紀末に終わり、忘れられた存在になっていたが、1970年代に保存の措置がとられ、江原道の有形文化財となっている。維持管理は、地域の24戸のコミュニテイでの共同管理という。
見学を終えて、ソウルへの移動。途中昼食をとり、あとは渋滞があったが、なんとか夕刻にはホテルに着いた。
(運転していただいたチェドンミンさんにこの場を借りて御礼申し上げます。今回のセミナーは、韓国の学会副会長として、手配その他、そして自らも報告などを行い、本当に何から何までありがとうございました。)
夕食は、ソウルに住む研究者の李智恵さんとともにすることになり、青瓦台近くのレストランに向かう。
李智恵さんは、文解教育(識字教育)や疎外層の教育に多くの業績があり、この日の話では、最近新たに、脱北者の韓国での適応困難の事例についてのケーススタデイを行っているという。また、ブックプランナーとして著作プロデユーサーの役割もしており、彼女の最初のプロデユース作品たる、韓国の夜学の歴史の本を謹呈いただいた。
4月5日(月)
部屋が一緒になった友人のNさんと夜半、研究やその組織化運動の話を多くした。
翌日は、彼はキンポ空港から羽田、僕はインチョンから新千歳だ。早朝のリムジンに乗った。
この国には、今年7月に調査で、また再訪する予定である。
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