僕の教育・学習などのいわゆる民間教育運動への関わりや参加は本格的には大学院時代以降になる。学部学生(近頃は学士課程の学生と定義する動きが政策のメガトレンドだ。)の頃は、学生サークル(演劇)や自主ゼミへの(教科書裁判、教育ゼミ、全教ゼミなど)参加が中心だった。大学民主化運動、70年安保改訂反対運動、ベトナム人民支援、沖縄返還運動の頃でもあったので、人並みに学生運動も体験してきた。我が青春の日々の体験だ。また、その中で培った学部を超えての友人関係は、その後の僕の精神的財産だ。
大学院に入って、専門的な分野の研鑽を積むこと(日常的な院ゼミ、研究会、学会、論文書き)と同時に、民間の教育・研究運動にも少しずつ関わることが始まった。考えてみれば、そうした素地は学部時代にもあった。(72、3年年だったか、岐阜県中津川での教育科学研究会の集会参加、73年か74年かの和歌山での日教組の教研集会への学生としての見聞を兼ねた参加などを思い出す。)それは、視野を広げるための見習いの旅の始まりだ。学ぶということと旅をするということとは、どこかでつながっているのだろう。
大学院1年の夏に、社会教育研究全国集会(第14回)が名古屋で開かれた。中小企業センターホール(当時)が全体会場であり、観光会館(当時)が、宿泊と分科会会場を兼ねていたように思う。僕は駆け出しの実行委員会事務局員であり、そのプロセスに未熟ながらわくわくしながら関わった。
写真は、1974年の社会教育研究全国集会(第14回 愛知)の現地実行委員会第一回総会の記録の一部。吉田昇(故人、当時お茶の水女子大学)委員長の挨拶、小堀勉(故人、名古屋大学・当時)先生、集会担当の若き日の小林文人(東京学芸大学・当時)氏、愛知の浦辺史(故人、日本福祉大学・当時)先生、那須野隆一(日本福祉大学・当時)、柿沼肇(同左)の両氏、職員の南孝夫さん(名古屋市熱田青年の家・当時)などの姿が伺える。
その年の春に教育法学会が名古屋で開催されたときもそうだったが、本で名を知っていたが、顔も分からなかった著名研究者や実践家に間近に接すること、あるいはすぐれた実践事例報告や理論分析にふれることは、今までとは違う世界の広がりを意識するものだった。殆ど同じ頃に、社全協(社会教育推進全国協議会)会員となった。http://japse.txt-nifty.com/
さらに、社全協・愛知支部の結成過程にも立ち会った。当時愛知に戻られてまもなくの小川利夫先生(故人、名古屋大学・当時)、や真野典雄先生(故人、名城大学・当時)のリーダーシップの下に、自治体職員、民間学習団体メンバー、青年団体、研究者、市民との率直で親密な協働のありようを素朴ながら体感した。例会の開催、いくつかの地域調査が思い浮かぶ。当時の施設合理化のはしりとして犬山モンキーセンターを博問研(博物館問題研究会)のIさん(まだ若かったのに、後年癌で亡くなられた)と一緒に訪ねたことなどなつかしい。また、少し性格の異なる東海社会教育研究会という民間教育研究団体の事務局員でもあった。全国的ないし地域的なインターカレッジの研究会のいくつかにも関わった。
この頃、学生運動は、卒業かと思ったのに、全院協(全国院生協議会)の東海地区ブロックの理事になってしまった。東海地区の他の大学院に出かけたり、主として東京で開かれた全国会議にこれまた未熟者として参加した。全国会議は、初回は箱根強羅温泉での会合だったが、その後は主として東大農学部を会場に行われた。全院協は、宿泊費が出ない貧乏組織なので、会合の度に、東京・関東地区の院生の自宅や下宿にお世話になった。
院の2年目以降には、青年教育に関わることが始まった。(これは、その3で書こう。)
(未完)
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