世代交代(交替)。
ひらたく言えば、年をとった者が退き、若い者に代わることの意味だ。社会システムや運動には必ず世代交代がある。
少子高齢化の趨勢のなかで、高齢者には重層的な厚みが加わっている。とくに、近年の変化は、戦後第一次ベビーブーマー(いわゆる団塊世代)世代が、大量に定年(停年)を迎え前期高齢者層の厚みが増してきたことだ。こうした流れは、高齢者人口を拡大させ、後期高齢者医療や福祉問題など、真正面から取り組むべき課題となっていることは、昨今のニュースの強調するところだ。例えば、百歳以上の人口は、今年は、三万人を超えたという(1975年当時は、約600人だったから、2007年の32295人は、32年間に約54倍弱になる。今年はその数が4万人を超えそうであり、2050年の推計値は、50万人という)。
しかしながら、そうした高齢者人口の拡大に、医学も、医療も、福祉も、生涯学習支援も、社会システムも追いついていない。この国の交通事故死者数(6352人、2006年)よりも多い自殺者数(33093人、2007年)があり、そのかなりの数が中高年齢者層によって占められている。元気に日々を過ごせ、生き甲斐をもって安心して老いることの困難な時代と社会に僕(たち)は生きている。高齢社会が暗くとらえられがちな要因に、政治の貧困があることは間違いない。毎年の敬老の日が「軽老の日」としか響かないことはもはやパロデイにもならない。(ちなみに、今年8月15日敗戦の日に、後期高齢者保険料が、決められた15日という日だけの理由で天引きされるという。その日を迎える戦争体験者の高齢者は、命の軽んじられ方が、赤紙1枚も、保険料天引きも一貫していると感じるかも知れない) ああ! ゴメンなさい。温厚な僕なのに、こういうことになると、つい「怒り」に火が付いてしまう。
話を戻そう。今あらゆる組織が、「団塊」世代の「定年」退職に遭遇している。定年制度は、第一線からのとりあえずの退場を意味する。人生の第二の出発、第三期はこれからということになる。この世代は、戦後民主主義の洗礼を受け、日韓条約、大学紛争、公害問題、70年安保、沖縄返還「祖国復帰」運動・ベトナム戦争、オイルショック、国鉄、三公社五現業の民営化、バブル景気の破綻、聖域なき行財政改革、教育費の高騰などによる家計の圧迫、等々を経験して来た世代だ。社会的関心も比較的高く、社会的運動や組合運動の主要な担い手であった。NHKの「プロジェクトX」的なエピソードを生み出しながら日本の経済成長に主導的に関わってきた世代だ。それらの担い手の時代が終わろうとしているのだ。定年制度は、若い人にとっては、「世代交代」によって、自分の役割や出番が増えることを意味するから、その限りでは、定年制度は民主的な側面をもつ。しかし、すこし不安げに語られることは、団塊世代よりも10年くらい下の世代が、やや保守的であり、様々な運動にもあまり関心なく、個人主義的で、醒めた世代、ポストモダン世代と言われがちなことだ。(無論例外は多数ある)運動の冬の時代になるとも言われる。身も蓋もない拝金主義者の声高な声や競争第一主義の貧相な人間観の横行に、もの申すことがないようでは、この先どうなるのか、他人事とは思えない。ちなみに、僕は、団塊世代の末尾かもしくは直近世代ということになる。僕も、いくつかの役割や仕事を先行する世代から受け継ぎ、さらにまた少し若い世代に引き継いでいくことを経験しつつある。
先週末は、土曜に、二つの予定がぶつかり一つは欠席となった。一つは、「ゆきとどいた教育を求める全道スタート集会」という行事での講演。もう一つは科研費研究での研究打ち合わせでの報告であった。前者が先約で時間がほぼ同じであったので後者は不義理となった。僕の講演は、グローバル経済、教育格差の矛盾の集中する北海道の教育現実を直視し、それらが国際的な比較の中でどのような位置に立つのかを明確にすることだった。僕の話はともかく、後の討論での具体的な実情は、この国の教育重視といううたい文句がいかにいい加減で、冷淡なものであるかを知らせるものだった。参加されていた皆さん(教師、父母、婦人団体ほか)が意気高かったのは、こうしたことを放置できないという人間的な憤りと学び手である子どもや若者への共感からだろう。高教組のS委員長や各地区の方々、道教組Oさんの話は簡潔で核心に迫るものだった。
終了後、別件の話。合同教研集会の世話人集団の世代交代の話があり、僕は新たにその一員に加わることを要請された。今年は、合同教研の時期にサバテイカル研修で不在だが、次年度以降の組み方の論議に参加していくことを了承した。これも、今日のトピックの世代交代の一つということになろう。来月初めには、東京で『社会教育・生涯学習ハンドブック』第8版の第一回編集委員会があり、これには東北大のIさんに新たに加わってもらうことも決まっている。これも世代交代の一つ。やがて、僕もバトンタッチして退くことになるのだろう。
朝のシローを連れての散歩。豊平川河川コースでの風景。さわやかな風が渡っていく。
日曜の夜に、ケーブルテレビで、前に劇場に行けずにそのまま見てなかった「真実の瞬間」(1991、アメリカ)を観た。1950年代のマーッカーシズムの吹き荒れる時代。ハリウッド世界にも押し寄せる赤狩りの狂気政治。アメリカはこういう面では、欧州の成熟とはほど遠い排除的社会。この右翼キャンペーンによる犠牲者たちは職を失い、家族崩壊を余儀なくされ1970年代までそれは続き、名誉回復はそれ以降だ。監督・脚本:アーウィン・ウィンクラー、主役に、ロバート・デニーロ、アネット・ベニング。デニーロが好演している。映画を観ながら、前に読んだ、リリアン・ヘルマ『眠れない時代』(Scoundrel Time,直訳すれば、ならず者・悪党どもの時代)を思い出した。ヘルマンと友人ジュリアとのかえがたい友愛を描いた映画「ジュリア」も胸に残る。僕の青年期の頃にも、狂気の名残はあった。そして、それを克服する努力が、過去30年以上あったのだ。(僕も加わってきた)再び、時代を狂気の時代に逆転させてはならない。運動の世代交代は、そういう精神の継承であってほしい。
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