一昨日、友人でもある月刊誌編集長の緊急依頼で、先日行った日韓生涯学習シンポのことを大急ぎでまとめ、昨日午前送信した。原稿依頼が緊急なので時間的にやや無理かなとは思ったが、一方であのシンポのことを知らせるのは意義のあることと考え直し、引き受けることにした。またU編集長氏の最後の編集号でもあり、彼の頼みにはやや義理人情世界みたいな所があってそれも捨てがたくお引き受けした次第である。一晩で書けばと思って深夜、パソコンに向かったが、このところの身体疲労で、眠気が襲い、思考が働かない。こんな場合は、エイっ。いっそ寝た方が良い。カラスの行水よろしく入浴し、ベッドに潜り込んだ。数時間の睡眠でやや頭は回復し、この日の散歩は、家人にお願いして、書き出してみた。なんとか、ギリギリの時間で間に合った。が、後で見直すとミスタイプや意のつくさない表現に気づく。いくらか訂正したものをこれまた校正締め切りギリギリのところで送信した。
大江健三郎の小さな文庫本に、『「話して考える」シンク・トークと「書いて考える」シンク・ライト』(集英社文庫、2007)がある。冒頭および後書きにでてくるキーワードは、エラボレーション(elaboration)。語源は、e-外に向けてという言葉と、働く、作り出すのlaborの合成だという。大江は「入念に作る(仕上げる)こと、労作」という訳語が自分にはなじみがあると記している。また、小説家の仕事は「言葉をみがくこと、みがいた言葉によって自分を表現することだ、と考えています」と述べている。彼の作品について他で記したもののなかにも、幾度も幾度も推敲して作品をみがく作業が記されていたことを思い出す。そして、最初の草稿は見る影もなく改変されていくことを。創造というものは、そういう作業を伴うもの。
大江は、本のタイトルの理由の一つに、「話して考える(think talk)際の論理性を、いかに書いて考える(think write)それに近づけ、両者に連続した責任をとるかを考えています」としている。日常、話して考えていることと、書いて考えていることの間には微妙な差異があることは、僕にも了解できていることだ。一晩で文を書くということは、集会記録などの種類では臨場感を書き込む上では悪くないかも知れない。しかし、論理的な文には、elaborationが不可欠である。肝に銘じておこう。
とはいえ、大江も対話的思考の有用性を否定している訳ではない。小澤征爾と大江の共著的対話本『同じ年に生きて』(中央公論新社、2001)は、僕には好もしい本の一つだ。かつて、小澤の『僕の音楽武者修行』(音楽之友社、1970?)
を読んだときの、スクーターの後ろに日の丸をつけて、世界を自分に向けて開かせていく若き日の姿が浮かぶし、大江の『ヒロシマノート』前後の頃の若き懊悩も浮かぶ。その同じ年(1935年)生まれの若者たちが、やがて成熟し傑出した存在に転成し、同じように次の世代に向かって、direction(自分のなかから搾り出すこと、そのように自分の個から出てくるものを、どうやって他の人たちへ方向付けるか、届けるか)の重要性を指摘しているのが、興味深い。
そんなことを、今日の僕は、朝の散歩のときに、歩きながら考えた。歩く、泳ぐ。そんなときは無心だ。考えのサイクルも、集中し、転じて、拡散し、また集中する。その繰り返し。このリズムが心地よい。
シローは今日も元気だ。早速、♀犬の?の匂いをみつけ鼻をつける。行儀よろしくないぞ。
鴨鴨川には、鴨の親子が泳いでいる。鳥居にとまった鳩たちはのどかだ。中島公園の林間は朝の光がさわやかだ。
別の場所では、少し大きくなった鴨たちが川に頭を突っ込んで餌をついばんでいる。
シローは力を出して綱を引っ張っているが、そうはさせじと制動がかかっている。
季節外れの巨大コケが切り株についている。暑さと湿気が資源だ。
立葵の花が咲き始めた。
この文章のタイトルを大好きです。毎日いろいろな仕事が終わり、ちょっと反省すれば、心の豊さが徐々に上がりましょう。
投稿情報: 李 | 2008年8 月 1日 (金) 15:02
どうもありがとう。
投稿情報: 北光り | 2008年8 月 1日 (金) 23:24