先週半ばは、東京出張。関係分野のハンドブック第8版の編集会議。札幌も暑苦しい日があったが、週後半は一転して朝夕は寒いくらいだ。本州の照り返す路面から発する太陽のジリジリ・ギラギラ感と蒸し暑さは、その点では比較にならない。北海道に来た当初は、この地の人たちが、27-8度を超えると脳が溶ける、思考が働かないというのを、妙なことを言う連中だと思っていた。それから10年近く住んでみると同じように考え始めている自分がおかしくなった。
この日は比較的雲海が少なく、昇降時の揺れも少なかった。新千歳空港から苫小牧上空までの快晴の大気感と、羽田近くのどんよりとした空気感が少し違うかも知れない?
市ヶ谷近くでの編集会議は少し長引いた。軽い打ち上げをしたせいもあり、時間が遅くなった。K市に住む息子とは電話で連絡したが、遅くなったので、会って食事して話すのは、次回ということにした。スウエーデンに一年留学したせいもあり、五年かけて大学を卒業し、昨年から勤め始めた知的障害者支援の福祉系職場は、価値ある仕事だが、低賃金、長時間労働、なかなか自分の尊厳を維持し、インセンテイブを高めるのが困難なことが外から見ていても分かる。息子は、もう少しやってみて展望が開けるかどうか考えてみると一年たったこの四月に言っていた。日本の福祉政策と政治はこういう分野に財政支援をして、人々の生きる意欲や誇りを支えることに冷酷で貧しい。
翌日、札幌に戻った。行き帰りやホテルで、現段階をどう見るかという点で、気になっていた本に眼を通す。
進藤兵と世取山洋介の両巻頭論文がこの本のパースペクテイブと理論枠組みを明示している。「第三段階の資本主義」(進藤)にある現段階を規定している新自由主義(教育)政策をいかにとらえるかが第一の柱。新自由主義政策を支える枠組みとして、世取山が近年力を入れて分析紹介する「新制度派経済学」(NIE)や「主人-代理人」論(Principal-Agent Theory,PA理論)は、その通りだ。しかし、権力側のマクロな理論装置の解析そのものはただちにそのオルタナテイブを示すものではない。第二の柱は、具体的には、どうすればこの忌まわしき時代を変革可能なのかという点である。それについては、本書が示すように、教育といった領域においては、学際的な研究が必要であるし、実践分析や比較教育の上にコアとなる理論が求められることも確かだ。だが、一読しただけでは、その実践的なイメージは、僕には、具体的な展望において、まだ納得をもった明瞭さで浮かび上がってこない。この本でも、教育学の視野は、まだ「学校教育学」の範囲を抜け切れていないし、労働教育や生涯学習、文化活動を含んだ人間形成の総体を扱う理論装置にまでは至っていない。幾人も引用し、言及している本田由紀の「ポスト近代社会」的「ハイパー・メリトクラシー化」(超業績主義化)という現状把握分析枠組みだが、いずれもその先は課題を述べるにとどまっている。新自由主義政策についての根底的批判は、進化してきた。しかし、それを超克する対抗軸としての理論と実践は、まだ僕たちは有していないのが現実なのだろう。とりあえずは「社会なき社会」化」(平塚真樹)ではない、「新たな平等と相互支援の社会」(佐貫浩)として構想される「社会」への具体的な方略を考えていくことが課題であることは首肯しよう。その先は、僕自身も参画的に発言すべき課題なのだ。
札幌に戻ったその日の夕方は、社会教育研究全国集会の最後のツメの段階の事務局会議。細かなマニュアルづくり、財務や、人の配置、タイムスケジュールの確認作業。僕は、この数日、この集会に韓国からやってくる訪問参加団の施設受け入れや訪問先の調整などで幾人もの人を介した調整を行ってきた。日韓両政府の竹島(独島)問題などに関する応酬もあり、政治の影が及んだこともあったようだが、何とか来られるようになったことは良いことだ。課題別集会、分科会関係のツメはまだ少し残っている。週明けの月、火が最後の調整だ。
金曜は、朝から会議が二つあって、夏休みの気分はない。また、引っ越し作業で中断していたMさんの博論指導も一つ入った。さらに研究室のネット環境回復作業での事務部との調整(結局、どうやらPCの不具合があるようで、月曜日に修理を依頼することになった)もあった。
夕刻になって、連れ合いと約束していた大学近くの食事場所に出かけ、その後、「K室内管弦楽団第15回演奏会」を聴くことにした。偶然、案内を知り、モーツアルト、ビゼー、ハイドンの小曲プログラムもあったが、何よりも行こうと思ったのは、部局で同僚のP.S氏の作曲になる「管楽七重奏と弦楽のための合奏協奏曲」(Concerto Grosso for Wind Septet and String)が演奏されると聞いたからだ。
K室内管弦楽団は、演奏されている方々の多くは、大学の教職員、院生とおぼしきアマチュアの方々のようだ。指揮をされているO先生は、この分野の研究的専門家の方のようであるが、直接は存じ上げない。皆さんアマチュアの気分を大事にして、技量の向上を目指して、そして何よりも楽しんで演奏されていることが良い。小曲プログラムの中で、ハイドンのチェンバロ協奏曲ハ長調Hob Ⅷ:Nr.1が小気味よかった。使われたチェンバロは、大学所有の2台の一つでジャーマン・チェンバロだそうだ。P.Sさんも来られていたが、彼の作品はなかなか雄大かつロマンテイックだった。バロックと近代古典との中間のイメージと本人は言われていたが、僕は専門のことは分からないが、この日の本邦初演の作品を大いに楽しんだことは確かだ。帰り際に、P.Sさんに挨拶をしたが、ご本人は嬉しそうだった。大学の小講堂での室内楽演奏会。PRが弱かったのか、観客は少なかった。しかし、こういう小さな音楽の「真夏の宵」があってもよいと思った。
帰宅後、北京オリンピックの開会式が始まっていた。壮大で美しい。つい見てしまった。中国の国威発揚か平和の祭典か、など賛否両論あるが、真夏の宵の大きな祭典であることは間違いない。
(後日、この花火等の映像の一部がCG合成であったこと、子どもの歌声が口パクであったということを知る。なんとも興ざめだ。後味が悪い。中国、北京オリンピック委員会の信頼を落とすだけだ。なぜそんなことをするのだろう?)
p.s. ロシアとグルジアの戦火報道。アメリカも背後でかんでいるらしい。オリンピック開会式と同日であり、なんたることか。
死者2000人、避難者3万人の報道。ロシアは、事前の戦術連絡もあったのか不明だが、プーチン首相やそれ以外の政府関係者など含めて(オリンピック参加選手団や関係者も宿泊させているが)2000人規模の人員が北京郊外の高級ホテルを借り切っていたとのこと。(朝日新聞,2008.8.9-10)
P.S. 2
グルジアとロシアの戦火はやはり、背後にアメリカネオコン、大統領選挙やイスラエルもからんでいるらしい。オリンピック開会式の夜は分からなかった。(08.8.13)
http://eigokiji.justblog.jp/ (マスコミにのらない海外記事ブログ)
チェイニーやブッシュは、ブッシュ後のマケインを据えるべく、ロシア・プーチン首相をイラク・フセイン後のヒール役に仕立てて、民族領地問題を絡ませる。そういう政策判断(ミスジャッジもいいところ)が働いているということらしい。軍産複合体も関心を寄せる。しかも、グルジアはスターリンの生地でもあるのは皮肉なことだ。オセチア地方(カフカス地域の一部)が大きな犠牲を引き起こす発火点にならないこと、これ以上の市民の犠牲が出ないことを希望するが、このアジアの東方の地から、一体何ができるのか。
「マスコミに載らない海外記事」をお読みいただき大変に有り難うだざいます。
ところで今、大変不思議に思っていることがあります。岩波現代文庫から最近刊行された豊下楢彦著「昭和天皇・マッカーサー会見」についての書評をほとんどみかけないことです。
天木直人氏が書いていますが。
敗戦、戦犯、靖国神社、属国化した日本を生み出したものが何だったのか、衝撃的な事実をめぐる近来稀な力作だと思うのです。これこそ、オリンピックなどよりも、はるかにテレビ、新聞報道に値する事実でしょう。
投稿情報: goose | 2008年8 月14日 (木) 21:32
ありがとうございました。
報道の裏側の隠された真実というか、うごめく政治的意図を見抜いていくことに、
もっと鋭敏になる必要がありますね。
投稿情報: 北の光 | 2008年8 月14日 (木) 22:51