最初の勤務校での元同僚、友人の悲報が続いて人生の哀れを思う。
先に書いた、Hさんのご逝去に続いて、少しだけ年長で、同僚だった期間はそんなに長い訳ではなかったが、親しい友人だった(僕はそう思わせていただいていた)近藤郁夫さんが、癌との闘病の末、この22日に亡くなられた。郁夫さんとかつて住所も近く、学童保育でも一緒だった今の同僚、Mさんからその悲報を受けた。通夜も、告別式も、校務があり行けないので、ここに彼を悼む気持ちを記しておきたい。
郁夫さんの連れ合いの直子さんは、障害児保育研究で、全国に名を知られた方で、当時、非常勤講師に行っていたNF大では良くお見かけしていた。その郁夫さんを当時の職場同僚に迎えたのは、正確に記憶しないが、1990年前後だったように思う。故人に今はなられたMT先生の定年退職に伴う後任だった。
近藤郁夫さんは、大学院博士課程を終わった後、長く、京都で非常勤講師をされていた。ようやくの正規の職で、張り切って赴任された。会ってみると独特の雰囲気を放つ自由人で、優しいお人柄だということがすぐ分かった。
この方も癌で亡くなられたが、当時の先輩同僚高沼秀正さんの御父上が亡くなられた時に、通夜に彼を連れて車で高沼さんのお寺がある、榊原温泉まで向かったが高速道路を降りた後、温泉入り口が分からず通り過ぎて、峠を越えて青山高原まで行ってしまって、道に迷った。ようやく引き返して、通夜の読経が済んだ後でたどり着くというドジなことがあって、高沼さんに笑われてしまったことがあった。そのときに、車中良く話したのが、短くはあったが郁夫さんとの親しいつきあいの始まりだった。
その後の郁夫さんとのつきあいの細部はここでは書かない。彼は、鈴鹿の池、三部作(後に5部作)と称して「日帰り山行」(夫人の直子さんの帰宅前に戻り夕食づくりをすることが山行きを許される条件とかよく冗談口をたたいておられた)の成果を、私家版の美しい写真詩文集にまとめていた。そこには、通常の大学人の枠を超えた人間郁夫さんの姿が躍如としていた。
その山行きに使う、スバル・ドミンゴを運転して、登山ウエア、チノパンツ姿で現れることがよくあった。今はその姿をよく思い出す。僕が、私事で元の連れ合いとの別れを体験して落ち込んでいた時に、励ましていただいたのが心に残る。それもあって、首都圏の大学に移ることにしたときに、良寬の話をよくしてくださったのも、悲しく、なつかしい。埼玉のOさんの薦めもあったが、郁夫さんからの薦めで山本萌さんの書画詩文集をふきのとう書房から全冊求めたこともあった。以下は、同僚のMさんに返信した文である。
Mさま
○○(僕の名)です。
ご連絡ありがとうございました。
和歌山の社会教育学会で、和歌山大学のYさん(障害児教育専攻、N大社教院出身。連れ合いの方が郁夫さんの職場同僚)から近藤郁夫さん(郁ちゃんと僕らは呼ばさせていただいていた)が長くて余命1週間だということ、妻の直子さんが問い合わせにつらくて耐えきれないので、控えてほしいとの連絡があり、僕に伝えてほしいとのことを21日に聞きました。愕然としました。
Yさんと色々と話しましたが、癌病巣が肺に転移した後、脳に転移したとのことを聞き、暗い気持ちにならざるを得ませんでした。
郁ちゃんがまだ意識のあるときに、ベッドに持ち込んでの物書きを禁じられ(病状を案じてのことだが)、パソコンを取り上げられていたのだが、見舞いにいった友人に、売店でパソコンを買ってきてほしい、まだ書いておきたいことがあると言ったとかのことを聞き(無論、売店にはPCは売っていない)彼のやり残した悔しい思いを想像しました。
2年ほど前に、別件で名古屋に行ったときに、予告なしに病院に見舞いに行きました。廊下で彼を見つけ、「おお、○○ちゃんか、珍しい、何しにきたんだい」とか言われて、「いや見舞いに来たんだ」というと
「どうもどうも遠くからありがとう」、連れ合いを同行していたので、「ああ、この人が○○ちゃんの、貞心尼さまかな」とか
軽口もたたいておられたので少し安心したものでした。(貞心尼だと四十も年が離れていることになるが、無論そんなことはない。大学の元同級生だ。)
また、治療の第二クールだと言って、郁夫さんから直接闘病の状況を聞いたものでした。作務衣を着て、化学療法で、頭髪は抜けていましたが、まだしっかりしておられたのが何よりでした。
その後のはがきの応答、例えば、その一つにこう記されていました。
「よもやお目にかかれるとは、夢にも思わず、貴重なひとときをともにできたことは喜び・・・「ケセラセラなるようになる」と「何のこれしき」の両精神で入院生活を過ごしているよ・・・・」(07.4.2)
また、教師の教育実践や闘病に触れた長い手紙の受信もありました。しかし、昨年からは、返信もなくなっていたので案じていたところでした。
郁夫さんの専門は、生活指導論でした。同時に、人間抱擁・包容の精神を自然体で行う人でした。
「僕は峠の茶屋の主人」と自称して、学生の話をじっくり、じっくり聞いて、まるごと受け止めて、そうだねえとか言うのが彼の教育でした。
この時代にこんな風に癒やされた若者はどれほどに幸せだったことか。
郁夫さんの人生には、次の良寬の人生観に通じるようなところがありました。
ゆめの世に かつまどろみて 夢をまた かたるも夢よ それがまにまに(良寬)
悲しい思いですが、ご冥福を祈りたいと思います。
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