秋の風情が漂ってきた。今の日本では、旧暦の行事はすたれているが、中国や韓国では健在だ。中秋日(Mid Autumn Day)は、一大行事である。家族が集まり、互いの健康や繁栄を祝して、持ち寄った食材や月餅を食べる。日本でも、中秋の名月は、かつては生きていた。僕の小さい頃、祖母がおはぎをつくり、縁側で月を眺めて、兎がいるのだろうかと幼心に考えたものだ。庭先には、すすきが揺れて、今にも狐や、狸が出てきてもおかしくはない不思議な気持ちだった。内山節が「日本人はなぜキツネにだまされなくなったか」(講談社現代新書)という小著を書いているが、まだキツネ話が生きていたように思う。
さて、秋と言えば、ちょっぴり夏の思い出と寂しさの共存する日常というのが、定番イメージだが、今年はそんな気分は皆無だ。情緒に心を動かす余裕もなく、次から次へと事業が押し寄せてくる。
それでも、ちょっとした楽しみをつくることも大事。先週末土曜日は、「地域再生科研」と略称する研究会報告準備があるので、部分的にしか立ち会えなかったが、H大農場の恒例の<芋掘り>があった。市場価格よりは格安だが、それ以上に日頃しない農場での芋掘りができるというので、教職員家族には人気の事業だ。
芋掘りというのは、馬鈴薯掘りのことだ。農場では、数多くの馬鈴薯の品種改良研究を行っている、その一部にこうした一般開放サービスを行っているのだ。
事前申し込み案内では、1口10株(7kg弱採れます)というので、2口頼んでおいた。当日、午前と午後のプログラムがあったが、午前を予約しておいた。会計を済ませてから、連れ合いと一緒に農場まで行ったが、その時点で、僕の時間の余裕がなくなった。報告資料の印刷時間を考えてのことだ。申し訳ないが、あとは連れ合いに任せて研究室に戻った。
帰宅後、つれあいに聞くと結構楽しかったようだ。作業をしながら、農場管理の職員の方から、こうした企画の由来や掘るジャガイモの品種改良の話を聞いたそうだ。(今回の芋は、洞爺という品種)また、食糧難の時代には夜見張りも必要だったというが、(新たな実験中の芋を盗られるのは一番望ましくない事態。)、最近では、カラスでもイノシシでもなく、頭髪の黒い二本足の「動物」が盗掘に来るそうで、昨今は見張りも立てる余裕がないので頭が痛いという話を聞いたそうだ。モラルの低下なのか、本当に食料事情が悪い家庭?が増えているのか、分からないという。この日は、たくさんの家族連れが来ていたが、横に長く広がった区画に分かれての作業である。一緒の区画の所には、小さな4歳くらいの男の子が、父親と一緒に来ていて、「すごいよ!見て見て!、お芋が出てきたよ!おいしそうだね!お日さまにまぶしいと言っているのかな。家に帰ったら、早く食べようね!」とか言っていて、かわいくてたまらないとか言っていた。
収穫されて、納屋に広げて乾されたジャガイモの量は相当のものだ。夕食には、早速、新ジャガが並んでの料理だった。
週明けは、大学院入試準備業務や先週片付けることのできなかった残務をこなすことから始まった。やはりひまにはならない。
今晩からは、つれあいは、「とびっきり東北 三日間」の旅に友人諸姉とでかけた。船と列車とバスと飛行機を使って、札幌-苫小牧-日本海クルーズ・船中泊-秋田・角館-平泉中尊寺-酒蔵あさ開-浄土浜-ホテル-北山崎-三陸鉄道北リアス線-譜代-久慈-十和田湖-奥入瀬渓流-白神山地-青森空港-新千歳空港。 まことに欲張りなコースだ。
楽しんで来ればいい。まだ紅葉には早いが、海と山と湖と世界遺産、思い切り息を吸い込んできてほしいと思う。
僕は、明日も会議、明後日からは早朝家事をすませてから出発の入試だ。シローの散歩もある。だが、秋の夜長を一人で過ごす時間も乙なものだ。
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