朝の新聞を見ると、ノーベル物理学賞の3人の日本人に続き、ノーベル化学賞に下村脩・米ボストン大名誉教授(80)の受賞が決まったとの報道。昨日の物理学賞に、日の丸が三本上がったなどとコメントされた方がいたが、別に受賞と国籍は関係ない。あくまでもご本人の純粋な科学研究の成果にたいする名誉だ。また、こうした受賞には、最近当該大学関係者の快挙の声があげられる。大学間の競争的環境がそうさせるのか、該当大学は喜び、そうでないライバル大学はいささかのジェラシーを抱くようだ。今回も、3人の関係者を生んだ当該大学の総長の祝言コメントが大学HPに載せられていた。N大学の総長は手放しで嬉しそうだった。
僕は、上記の大学の学部・大学院で教育を受けたが、同窓という意識ではなく別の意味で喜びを抱いた。今回物理学賞を受賞された小林・益川氏も学ばれた当時の坂田昌一氏がリードした理学部物理学研究室憲章などの自由で民主主義的な大学の雰囲気を想いだしたからである。科学の人類への平和的貢献という理念が生きていた時代に、学生・院生時代を自由に学び活動できたことを、平凡な僕でも、誇りに思うのであって、狭い同窓意識などではない。同窓会とか排他的愛校心とかは僕が最も好まない意識のひとつだ。
共同通信によれば、「下村さんは1928年、京都府福知山市生まれ。陸軍将校の父について、幼少期を大阪などで過ごし戦中に長崎県諫早市に。16歳のとき原爆を体験した。
爆心地から20キロ近く離れた場所ではあったが、下村さんは後に「建物の中が明るい閃光でいっぱいになり、目がくらんだ。すぐにとてつもない爆発音が聞こえ、衝撃波を感じ、耳が痛くなった」と当時の記憶を語っている。」とあった。
また、
「下村氏は「自分は(旧長崎医大という)小さな大学の出身だが、それでもノーベル賞を取ることはできる」と明言。「若い人の傾向として、困難に突き当たると安易な方向に向かいがちだが、自分が興味を持った課題を見つけたら、それをやり抜くよう努力してほしい」と、後進の研究者にアドバイスした。」とある。
これは本当に気持ちの良い、心が洗われるようなお話である。そのお仕事に尊敬の念をいだくコメントだ。
さて、昨日来、札幌市子どもの権利条例が文教委員会で可決されたという報道(10月7-8日)に触れて、僕にも、この数年間の関わりを想いだし、じわじわとした喜びがある。奮闘されたSさんやMさんのメールを拝読すると「こどけん」事務局にも、市内だけでなく、道内や全国各地から、お祝いと励ましのメッセージが届いているようだ。無論、単純に手放しで喜ぶばかりでなく、この動きが、子どもの権利と民主主義をめぐる拮抗した力関係の微妙な変化による(その変化を我々が創りだしてきたのだ)一歩前進であり、いつなんどき、そのバランスオブパワーが崩れ、逆風が吹くとは限らないことを自覚する。すり替えや、ごまかし、サボタージュが起きないように、これから行政のモニタリング、具体化の励まし、そして成果の確認などが必要だ。あらたなスタート地点に立ったのだ。
昨日今日はそんなことを感じながら、仕事をした。
昨日は、今度の渡英に使うかも知れない、国際免許証を申請取得に出かけた。手続きに時間がかかったが、何とか無事取得できた。自転車を、使っての移動だったが、大学に向かうので、鍵を外そうとするとトンボが止まっている。秋の日ざしをうけて気持ちよさそうだった。
大学では、たまっていた事務処理や雑件を片付けて、さあ、研究仕事をと思って始めると、次々と留学生たちがやってくる。研究指導を求めてのこと。当然の要求なので、応対するにしくはない。すでにサバテイカル研究研修休暇(10月1日ー3月31日)に入っているが、この制度は不完全なよりまし制度ともいうべきものであって、、委員会などの管理運営業務からの一応の免除規定がある。ただし、財政支援はないこと、教育的責任業務は残るというものである。従って、講義などは前期にまとめて終え、演習は研究グループの相方の方にお願いした(彼がこの制度を利用すれば、今度は僕が責任をもつ)が、修論や、博論の主査業務は残り、それがゆえに12月末には日本に戻らなければならないということになった。しかし、ラストチャンスではあったが、利用できることになったことだけでも喜ばなければならない。関係同僚の方々に感謝申し上げたい。
夕刻は、学部基礎演習でのコンパであった。失念していたが、先週、相方の同僚に参加を求められたものだった。今回は、半年つきあえないが、顔覚えもあった。教員故に、いくらかのextraの経費負担があったが、元気の良い2年生の声が聞けたことは良かったと言わなければならない。参加した若い彼らの成長を期待したいものである。
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