勤務する部局の耐震改修工事が終わり、戻りの引っ越しがあってから、2週間近い出張が続いた。このブログもこの間更新できなかった。以下は、その間の日誌である。
3月3日は、教授会。Nさんの博論審査は通過。電話先のNさんが嬉しそうだった。
4日は、科研費の調査報告の体裁造り。各氏に連絡を行う。Mさん、Iさんの来訪があった。5日は、研究室の引っ越し業務で朝から忙しかった。半年の仮住まい(とはいえ、僕はサバテイカルで英国での2ヶ月半があったのであまり生活感はない)とお別れだ。
3月6-8日は、東京の若者問題の中央フォーラム。9時の飛行機だからと、ややゆっくりして出かけたら、JRの快速エアポートに乗り損ね、連動して、予定の飛行機に数分遅れで乗り損なった。キャンセル待ちも効果なく、結局2つ便を遅らせての飛行機に乗った。変更可能なチケットだったのが不幸中の幸いだった。会場の日本青年館に着いたのが午後4時少し前。この日から、缶詰状態のフォーラム。宮本憲一さんの報告、韓国からのチョン・ヨンスンさん、宋美蘭さんの通訳、宮本みち子さん、森伸子さん、湯浅誠さん、木本喜美子さん、武田敦さん、等、内容は充実したものだった。ハードな日程をこなす。多分こういう空間では、僕は生き生きしているのだろう。
3月9日(月)
前日までの東京での「若者中央フォーラム」を終えて、帰宅したのが、8日夜の7時過ぎだった。東京の穏やかな早春の気候とは異なり、凍てついた札幌の街は、この地がまだ冬であることを主張しているようだった。肌を刺す冷気に思わず身震いした。犬のシローがクーンと寄ってくる。連れ合いは福岡へ出かけていて留守だ。Mさんの慰霊を兼ねて、遺されたご主人を友人たちと訪ね、お線香をあげ、生前の話を聞き、大学時代の友人たちと、福岡の街を歩きながら旧交を温めるというものだった。同世代の人の死は、僕もこの先、いつそういう日が来るのか、そういう覚悟を強いる。
家が冷え込まないようにストーブは極小にしてつけてあった。のぞいた冷蔵庫に食べるものは、何もなく、テーブルの上には、僕と連れ合いの留守中に、東京からやってきて滞在した連れ合いの長男のY君の走り書きが残してあった。急いで、夕食の具や、明日からの英国の旅に備えての下着類を買いに、近くのスーパーストアへ車を走らせ、戻ったのが8時過ぎ。手早く、風呂の用意をし、腹ごしらえをし、そうしたことが終わったのが10時すぎ。留守中のメールへの返信が必要なものが10数件あり、さらに幾つか緊急に連絡が必要なものを送信し終えたのが1時過ぎ。それから、今回の旅に必要な資料チェック、スーツケースのパッキングを終えたのが明け方の4時半。5時半には起きなければいけないが、1時間ほど仮眠をとる。アラームを2つセットして寝過ごさないようにしたので、今度は、始発の地下鉄と乗り継ぎの空港行きのJR快速エアポートには間に合った。前日の指定席購入は、我ながらよく気が利いたと、空港まではひたすら眠っていく。ところがだ。空港のチェックインで、はたとパニックになる。チケット引き替え用紙が、3月後半の名古屋行きのものを持ってきてしまったのだ。時間が迫るのに、列は長い。精神的に焦ってカウンターに事情を話し、パスポート番号からコンピュータ予約検索をして再発行をしてもらう。時代の進歩のおかげだ。何とか間に合った。成田行きの便には、D研究科のB氏が教え子たちと出張の模様だ。彼は、ほんのわずかの期間だけ、最初の赴任校で同僚だったことがあり、僕はその頃のことを承知しているが、彼は多分知らないであろう。目があうと、彼は僕を同じ大学の人間とは認識しているようだった。互いに直接の面識はない。
新千歳を離陸し、成田に着き、乗り換えてヒースローまでは、順調なフライトだった。11時間50分の旅は、ひたすら退屈なだけだ。成田空港では、土産を求め、機内ではひたすら映画と軽い眠りで、時間をつぶすしかない。「おくりびと」、「007」、それに何かつまらない邦画を観た。「おくりびと」は、映画館が満席で観ることができず、意外に機内で観ることができたのは皮肉ではあったが、良かった。ヒースロー空港で、待っていていただいたHさんと合流。地下鉄のピカデリーラインに揺られ、ようやくホテルに着いたのが5時少し前。夕方6時過ぎに、先着のUさんと我々の計三人で食事に行く。近くを散策し、レストランを探すが適当なものが見つからない。入ったのは結局パブ兼レストランだったが、不味くて高い。ホテルの周りは一部を除けば、あまり変わらない風情だ。
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