5月11日に本山政雄先生(享年98歳)が逝去されたということを、家人からの携帯メールで知った。夕刊にその元名古屋市長であった本山政雄氏逝去の記事が短く掲載されていた。
この数年、社会的発信や精神的諸活動は必要な場面で最小限なされていたようであるが、ご高齢故に体力の衰えがおありだと友人諸兄から間接的に聞いていた。
先生との関わりは、僕にも多少はあり、色々な場面が思い浮かぶ。私的な事柄であるが書ける範囲で記録として書いておこう。
先生が名古屋大学の教育学部長職の途中で名古屋市長に立候補されることになったのは、僕が学部3年から4年になろうとする73年2月後半くらいであった。(その意味では、僕は先生の最後の学部ゼミ生の一人であった。)当時現職のS市長に対して対抗する候補者選びが進行していたようだが、まさかゼミの先生がその候補者になるとは思っていなかったので驚いた。しかし、考えて見れば、教育と福祉を尊重し施策に生かす地方自治体の長に先生はまさしくふさわしいと思った。当時、「障害児の不就学をなくす会」などで中心的な位置におられたし、日頃から住民の多面的な学習の場に求められての講師役などに厭わず応じられていたことを知っていたので、その誠実なお人柄への信頼は若い僕にも強くあった。候補期間中に、多くの老若男女の支援者の一人として選挙に取り組んだことを思い出す。僕にとっては、教養課程の頃に、愛知県知事選挙に立候補された新村猛先生への選挙応援活動の手応えをすでに経験していたので、政治参加と世の中が変わることの実感を洗礼済みであった。色々なエピソードが思い出されるがここでは書かない。候補者として決まる前後からメデイアの追いかけも始まるというので、お住まいの官舎から一時的に避難されて仮の場所に移られたことも、当時助教授のS先生、助手のKさんからお聞きしていた。法学部のM先生も、こういう場面での対応について的確なアドバイスをされていたようだ。
先生に最初に教えて頂いたのは、教養課程時に数少ない時間数であるがV字型に入れてあった進学予定学部の基礎演習であった。家永三郎先生の教科書検定訴訟での東京地裁判決(杉本判決)が1970年7月に出たのであるが、それを早速読み進める学びであった。僕はまだ、大学1年であった。助手のK先生、そして本山先生が、判決文の読み方や解釈について助言指導してくださった。あまり教育学というものに興味がなかった僕に、その面白さや奥の深さを開眼する機会を与えて頂いた。もっとも先生の学部での講義は、当時学生自治会活動やサークル活動に入れ込んでいたこともあって、正直言って眠気との戦いであった。まことに不真面目な学生であった。この頃、自主ゼミとして組織していた教育ゼミの夏の学習合宿に、お話を依頼したことがあった。三重県白子海岸の海の家の粗末な会場に足を運んで頂いて講義をしていただいた。これは、眠らずに真剣に聞いた。貧乏学生の学習会だったので、交通費も出せたかどうか(お受け取りにならなかったような気もするが)の失礼な限りの学生の謝礼にも応じて頂いた。学生自治会編集で発行した『止揚』という雑誌への拙文にも眼を留めて頂いて感想を頂いたこともあった。市長になられて直後の名大で持たれた教育法学会には挨拶を頂いたように記憶する。その後も、名古屋で持たれた学会や研究会に時折時間を見つけて参加されることもあった。三期務められた市長職であるが、一期目、二期目は本山市政としての数々の実績をつくられていった。しかし、三期目の選挙では政治の流れが変わり、先生はその渦中にあってプロ政治家たちによってもみくちゃにされたような気がした。政策上も鮮明さを欠く対応をされることも出てきた。当時、先生の親しい相談役として住民の福祉・教育・医療などの切実な声を届け、学者文化人たちとの媒介・つなぎ手の役割をされていたKO先生がお亡くなりになったこともあって、政治勢力の権謀術数がうず巻く地方政治の中で、純粋に学問的人間的良心を貫くことの難しさを実感されていたようだ。住民からの真の情報が届きにくい心境も抱かれていたようだ。このあたりの頃の先生の表情は確かに精彩を欠くようなところがおありだった。あるとき、日本福祉大学が知多へ移転して、その跡地に建てられたマンションにお住まいになられていた本山先生を訪ねることがあった。かつて助手をされ当時勤めていた大学で先輩同僚であったK先生と一緒にお宅に伺ったのである。そのときは、市長職の困苦も話されたし、教育裁判研究が途中でできなくなったことの悔いも言われたが、しかし市長時代に経験された多くのプラス面もお話しいただいた。また別の場面であるが、大学院をおえて、最初の大学教員としての就職後、市の青年の家の運営審議会委員であった時の会議の場であったか、市のコミュニテイ研究会のときであったか、市役所でお会いしたときに、いつもの穏やかでひょうひょうとした表情をされながらも、激務で大変であることをふと話され、君も頑張って下さいと言われたことも思い出す。
僕の印象では、むしろ、市長職をおえられてやや自由人の身になられてから、再びお元気になられたように思えた。市民の集会などにも顔を出されたり挨拶をされるようになった。あるとき、三期目の市長時代に皆さんにご迷惑をおかけした。この場で謝罪したいというようなことも言われた。また、ある研究会で会を閉じてから喫茶店に行ったときには、市長時代に困惑したいくつかのエピソードもお話しいただいた。先生の人間味を感じたものだった。在外研究で英国に行き、帰国後幾年かたってから、英国から友人たちが研究調査にきたときに公開セミナーをもったが、それにも来て頂き先生のかつて英国に行かれた頃の話も休憩時にお話くださった。大橋精夫先生のたしか傘寿の会のときであったか、鈴木英一先生の退官記念パーテイのときであったか、そこにご参加の先生ともお話しできたことも懐かしい。
高齢になられて、ある年の冬に、年賀状の返礼ができないので、今後書かないし送らないでほしいとの葉書を関係者に送られ、それを頂いてからは、間接的に先生の近況を風の便りで知るのみになっていた。
第一期の選挙時に近くにおられた、小堀勉先生、室井力先生、鈴木英一先生、そして名古屋自由学校を提唱し、本山先生とも一緒に進められていた小川利夫先生も、今はいずれも故人となられた。僕ももう若くはない。今後、あの時代の空気を知る人も少なくなっていくのだろう。
この場を借りて、謹んで本山政雄先生のご冥福をお祈りしたい。 合掌。
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