3年前の韓国調査の終わりの日。帰国前のソウルのホテルからの夜景。今年は、10月にもう一度、韓国へ調査に赴く。
9月10日(木)
大学院入試が始まった。この日から三日間である。事柄の性格上、詳しくは書けないが、気を使う仕事だ。
午後、入試業務の合間の40分ほど、組合三役での総長への挨拶交渉へ出向く。当方側は、委員長、副委員長、書記長。総長サイドからは、総長、事務局長(理事)、総務部長、職員課長、職員課係長が対応した。組合執行部の交代による表敬挨拶でもあるが、大学の経営・管理に関する基本的な考え、構想について、また当面する重要課題について率直な意見交換を行うことにねらいがあった。信頼関係の上での緊張を交えた実質討議であった。国立大学のミッション、第二期中期計画への姿勢、大学経営への独自な方策、教職員の人間的な働き方と処遇、人事院勧告にかんする不利益変更への対応などが、主な意見交換項目であった。内容の詳細はここでは書かないが、総長の大学人としての見識とは別に、本部事務局の組合へのある種の対応を実感をもって知ったことは、僕にとってはあらたな収穫であった。この日の詳細な検討は、次回の執行委員会での討議課題の一つになるであろう。
職場に戻り、大学院入試業務を行う。
夕刻、地元新聞からの新聞を使った授業実践への、教育委員会からの稚拙な介入について、資料にもとづく詳細な取材を受ける。教育行政の懐の深さや見識が問われる事柄であるのに、なぜか、対応のレベルが低いように感じられる事例と思われた。政治学習、市民性涵養教育(シテイズンシップ教育)、リテラシー教育、NIE(newspaper in education)の基本に関わる問題である。子ども・若者たちに政治的中立性に基づいて、広く深い政治的教養を身につけさせるための支援の多様な方法と教師の教育の自由とその質的水準の確保について、すなわち、教育行政は、教育現場レベルの自律性に配慮することにこそ気を砕くべきであり、外部の不当な支配については見識をもって対応すべきである。そうであるはずなのに、政治学習(教育基本法14条「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない」)を狭く、萎縮された内容に止めようとする行政のように思われる。教育行政の基本的な姿勢(教育基本法16条「教育は、不当な支配に服することなく、・・・」)が問われる事柄である。
帰り際に、職場委員のKさんから、非正規職員の処遇上の緊急に対応すべき情報が送られてきていた。また、総選挙後の全国的な非正規労働者やワーキングプア問題への多くの取り組み情報が、もやいの湯浅誠さんからのMLで流れていた。また、これまたやっかいではあるが、部局60周年事業での、韓国の協定大学との実務上のやりとりがいくつかあった。
9月11日(金)
院入試業務。朝から、口述試験で神経を使う。
昨日の取材結果か、地元紙に記事が掲載されていた。
今日の院入試の判定会議の後で、60周年事業の韓国大学の招聘問題での実務で韓国の関係担当の友人に電話をかけていくつかの確認を行う。このことでは、同僚のNさんや韓国からの留学生のCHさんにもこの間協力を頂いている。ともかく、詳細は月曜での再確認となった。
この日は、やや疲れた。夕刻家に戻ってぐったりである。明日も、院入試。判定会議後は、M大学の院生とH大学の院生の研究交流について、側面的支援を行う予定だ。
来週末には、社会教育学会がある。その前後の研究会に向けて、書くべき仕事が控えている。心して日々を過ごそう。信州のコトバで、「ずくだす」という表現がある。何というのか、元気を出す、性根を入れて頑張るというような意味である。心に響くは、ずくだせ、ずくだせという自分の励ましである。(信州弁が、心に浮かんだのは、手塚英男さんの自伝的小説『酔十夢』上巻に引き続き、下巻を今日読み終えたからでもある。)
p.s.政治家の圧力に拙速に対応した道教委の教育への介入についての僕の見解(友人への手紙)は、追記に記した。
YAです。
北海道新聞(以下道新)の11日の朝刊に、十勝管内の高校での授業に関する記事が出たことをご存知の方があるかと思います。記事の発端は、総選挙の公示日に、ある教師(二人)が行った公民科授業に対して「偏向教育」との保護者のクレームが起き、その声を受けて、自民党小野寺道議が教育行政に注文を付け、それを受けて道教委が、各学校に調査をするようにとの通知を出す事件があったことを指します。この記事をご覧になった方もいらっしゃると思います。小生は、道新記者に求められて取材を受け、資料を入手し、コメントを話しました。新聞に載った文章は記者がまとめたもので、必ずしも僕の意がすべて反映している訳ではありませんが、大筋は、まとめています。
一応、新聞記事がなぜ問題になったのかを記しておきます。一つは、総選挙に敗北した自民党が神経をとがらせて、多方面にさまざまな難癖を付けていることが背景にあります。二つ目は、やり玉にあげられた公民科授業へのクレームがほとんど政治的言いがかりに近いイチャモンであって、法に照らしあわせても、事実の確認においても、筋の通らない道義のないものなのですが、これに対して、道教委が異例なスピードで反応して、通知を出すということが生じました。(これは明らかに二重の「不当な支配」(政治の教育行政への不当な支配、教育行政の教育への不当な支配)に相当するものです。三つめは、このことで、記事を出した北海道新聞社(道新)でも、議論がなされた模様でした。しかし、新聞社の大勢は、ジャーナリズムの良心と大道を貫いて、筋を曲げなかったといえます。四つめは、ちなみに、今回論議の対象となった「社説」の政治的中立性(不偏不党性)の確かめについては、小生に対して、道新からも、見解を求めて来たことがありました。僕は、世界のどこを探しても、純粋な不偏不党の新聞など存在しないこと、その意味では欧米は新聞社の政治的立場は、それぞれにはっきりしていること。日本でも、サンケイや読売、日経などは明確に保守的スタンスが見られます。(朝日は、社内が分かれており、記事によっては正反対の評価が出てくること、しかし、どちらかと言えば近年は、民主党機関誌に近いか!)それは、当然ではあることです。幸か不幸か、北海道新聞は、比較的オーソドックスに不偏不党をうたってきたように見えること(とはいえ、情勢に応じての微妙なバランスがそこには働いているようですが)もありますが、しかし、そのようなことは問題ではありません。新聞社は、独自の見解を持って、しかるべきであり、それが問題になることはあり得ません。(憲法上もそれは保障された自由です。憲法21条:集会・結社・表現の自由、検閲の禁止、通信の秘密)問題は、教育基本法14条の政治教育、16条の教育行政に関わります。道教委は、教基法14条の第二項「法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又は、これに反対するための政治教育その他政治活動をしてはならない」を持ち出してきているようですが、問題になった「社説」記事に関しては、どのように考えても、(政権交代というコトバが文中にあったとしても)特定の政党支持を訴えているようには見ることができないことを申し上げたのです。むしろ、同条1項の「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない」という条項こそが、道教委が心をくだいて、教育現場を励ますように条件整備をすべきであることです。また、16条の精神から教育行政が教育に「不当な支配」を行ってはならないのは当然のことです。恐らくは、新聞社側は、第三者から、社説に関しての、安心材料を得たかったようでした。問題となった「社説」は、ごく普通のその意味であまり特徴がないともいうような内容のものでした。従って、教基法14条2項に関わるような怖れは全くないものでした。(僕は道教委よ、ビビルナ!と思いましたが)
なお、現場の教師からは、僕に、次のような声が寄せられています。
Kさんのメール(9月11日)
<学校現場は随分迷惑しています。また、小野寺か、と帯広から転勤してきた教員は、言っていました。彼は、教育問題に露骨に介入することを仕事としています。彼自身のブログにもあるように、これは「ネタ」探しの次元なのです。これが選挙で選ばれた議員のする仕事か、と疑問に思います(むろん、現実はこの程度の人が多く存在し、この次元に留まっていることは承知の上)。彼は自身のホームページの日記の更新を、ここ数日間休んでいました。取材や新聞報道に関係があるな、と見ていましたが、やはりそうでした。最新の日記では、政治的介入の意図はなかった、とか、自分の意図が十分道教委に伝わらなかった(=したがって自分の意図しないような調査が行われてしまった、と言いたいのでしょう)と、言い訳していますが、彼が行動した事実とその余波は、彼の意図とは別に学校現場に影響を与えます。>
新聞記事の概要は別紙で(pdfファイル)で同信しておきます。記事の発端は、上記小野寺道議の行動であり、それに引きずられた道教委の通知の送付ということになります。
以下は小生の見解です。
p.s. いささか残念なのは、このような議員に牛耳られている道教委です。同情というか憐憫の念すら感じた次第です。現場の先生方の迷惑は大変なものがあると思いました。
以下、少し彼の発言の紹介と、コメントを付けておきます。なお、このレベルのものに応答する文章を僕のブログには載せたくない気持ちもあって控えていましたが、道教委が一向に態度を変えないので、あえて基本的な見解をブログに追加して書いておきます。
(元のブログは以下です)
9月11日の小生のブログ文章
<・・・(前略)・・・夕刻、地元新聞からの新聞を使った授業実践への、教育委員会からの稚拙な介入について、資料にもとづく詳細な取材を受ける。教育行政の懐の深さや見識が問われる事柄であるのに、なぜか、対応のレベルが低いように感じられる事例と思われた。政治学習、市民性涵養教育(シテイズンシップ教育)、リテラシー教育、NIE(newspaper in education)の基本に関わる問題である。子ども・若者たちに政治的中立性に基づいて、広く深い政治的教養を身につけさせるための支援の多様な方法と教師の教育の自由とその質的水準の確保について、すなわち、教育行政は、教育現場レベルの自律性に配慮することにこそ気を砕くべきであり、外部の不当な支配については見識をもって対応すべきである。そうであるはずなのに、政治学習(教育基本法14条「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない」)を狭く、萎縮された内容に止めようとする行政であってはならない。教育行政の基本的な姿勢(教育基本法16条「教育は、不当な支配に服することなく、・・・」)が問われる事柄である。>
さて、
小野寺道議会議員のブログに、「2日間ブログを休んだ理由」として、以下の文章がありました
「(ブログを休んだ)2つ目の理由は、10日に僕が北海道新聞の取材を受けたからです。この取材は、帯広の高校において、ある新聞社の社説が使われ授業が行われていた件の取材でした(この記事は、今日の道新の朝刊に出ています)。
実際に、僕のブログが発端で色々なことが同時に起こった事実を踏まえ、僕も自分のブログのスタンスをしっかり考える必要があると感じましたので、10日もブログも休ませてもらいました。 さて、僕が「新聞の社説を高校の授業を使われた」ことをブログを書き、道教委に指摘をしたのは事実です。そして道教委は僕の思った以上の速さで対応をしたようです。このスピード感について今回は高く評価をしてます。しかし、各学校に出した文章を見ると「僕の思っていたことが100%道教委に伝えられなかった。」と反省もしています。道教委は「1社だけの社説の使用」も問題にしているようですが、僕は「授業で社説を使用する社説は1社でも良い」と考えているのです。僕は、教職員には「社説が各社がバラバラであること」をきちんと認識して頂き、授業において社説使おうとするのであれば、主だった数社の社説を比較・検証するくらいの配慮が必要ではないかと言っているのです。
また、僕はこの教員を責めるつもりは全くありません。実際に「事業で使うには偏った資料ではないか」と保護者の方から指摘をされた事実を重く受け止め、そういう声が出来るだけ出ないようにする仕組みを道教委が早急考えなければならないと思っているのです。
今後、「小野寺は教育現場へ不当に介入した」と騒ぐ方々が現れるのでしょうね。すでに、かなりの数の「訳の解らないメールやコメント」をいただいております。僕には「教育現場へ介入する」という意図は全く無いのですが、それでも騒ぎ立てようとする人達がいるのです。それらの攻撃には正々堂々と戦います。そういえば、今日の道新の記事はそれ自体は良かったのですが、付録のような「有識者の見解」はどうしても必要だったのでしょうか。有識者であろう方の「あまりの薄っぺらなコメント」に、本気でがっくりしてしまいました。
さて、今回、僕のブログによって様々な波紋が拡がる可能性があることを改めて思い知らされました。今後はブログは少し慎重に書かならないかもしれません。しかし僕は、政治家はおかしいと思った時におかしいと主張するのが仕事であり、リアルタイムで「僕が何を考えているのか」を有権者に伝えることが大切だと考えています。僕は、慎重になりすぎることによって、政治家としてこれらが出来なくなってしもうのも嫌ですので、これらのバランスを考えながらブログを書いて行くつもりです。 この2日間、今後の自分のブログのあり方について、ほんとうに色々考えました・・・。」(以上が小野寺HPでの本人の文章)
僕は、小野寺という議員がどういう議員か知りませんし、彼がどの政党でも構いませんが、次の事実を認めているのは大事と考えます。
一つは、教育委員会に介入した事実を認めていることです。また、道教委の反応についても評価していることです。
<僕が「新聞の社説を高校の授業を使われた」ことをブログを書き、道教委に指摘をしたのは事実です。そして道教委は僕の思った以上の速さで対応をしたようです。このスピード感について今回は高く評価をしてます。>(小野寺道議の文章)
二つは、その上で「道教委」の指導の仕方に注文をつけています。
「しかし、各学校に出した文章を見ると「僕の思っていたことが100%道教委に伝えられなかった。」と反省もしています。道教委は「1社だけの社説の使用」も問題にしているようですが、僕は「授業で社説を使用する社説は1社でも良い」と考えているのです。僕は、教職員には「社説が各社がバラバラであること」をきちんと認識して頂き、授業において社説使おうとするのであれば、主だった数社の社説を比較・検証するくらいの配慮が必要ではないかと言っているのです。」
三つは、授業担当者の教師のありかたについては「責めるつもりは全く」ないと言っていますが、それがいかなる理由であろうとも、教師の授業の善し悪しの評価を加えた上で、その上で、自分は保護者の声なるものを深く受け止めたに過ぎず、保護者からの「事業(ママ)で使うには偏った資料ではないか」というような「声ができるだけ出ないようにする仕組み」まで「道教委」に求めています。
これをさして教育への政治の介入と言わないで何というのでしょう。まして、一議員の注文を深く考え熟慮することもなく追従し、議員の想定した以上の「速い」反応を評価されつつも、小野寺議員の注文を聞き違えた道教委の勇み足すらなじられているのでは、道教育委員会は、まさしく愚挙をしたものです。
四つ目は、蛇足ですが、小野寺議員にとっては批判が痛かったと見えて、八つ当たりは「有識者の見解」(僕と、小林北大名誉教授)に向けられ、それを「あまりの薄っぺらなコメント」などと非難しています。さらに彼自身の発言にいささかの動揺があったことが示されています。
「そういえば、今日の道新の記事はそれ自体は良かったのですが、付録のような「有識者の見解」はどうしても必要だったのでしょうか。有識者であろう方の「あまりの薄っぺらなコメント」に、本気でがっくりしてしまいました。 さて、今回、僕のブログによって様々な波紋が拡がる可能性があることを改めて思い知らされました。今後はブログは少し慎重に書かならないかもしれません。(ママ)」
僕が付けた「ママ」の部分があるように、彼の記事には日本語の推敲のレベルも低く、表現レベルでも「慎重に」書けていないようです。
<参考 >
学校教育局高校教育課長より、各道立学校長に
9月7日付で出されたもの。
~~~~~~~
公民科における指導内容等について(通知)
(概略)
最初に教育基本法第14条第2項をあげ、「授業
において現代の諸問題や時事的事象を取り扱うに
当たっては、教育基本法の規定に違背しないよう、
慎重に配慮することが求められており」 なのに、
一部の道立高校の公民科の授業「時事問題研究」
で、今回の衆議院選挙に係る内容を扱う際、教材
として一つの新聞社のみの社説を採用した。
それは特定の政党の政策について偏った認識を生
徒に持たせかねない不適切な指導であったと道教
委が断定し、従って、同様の事例があるかないか、
実態を把握するため、調査報告しろという通知です。
1、調査内容
(1)今年度、公民科の科目(学校設定科目)の
指導にかかわり、社説や雑誌の文章等から政党の
政策に関するものを活用したことがあった場合、
概要等を記入する
(2)社説や雑誌の文章、ワークシートなど、教
材として使用したものを添付する
報告期限は平成21年9月8日(火)となってい
た。
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