11月は、毎年のことだが、この地では、晩秋と言うよりは長い冬の始まりの月である。樹木の落葉もほぼ終わる。道路に敷き詰められたような落葉は、当初は美しく、やがて醜く朽ちていく。雨や雪の水分を含んでみじめに濡れ落ち葉になった姿は、なにがしか人生の終末期を思わせる。
外国では、今年は北京でも早い積雪があったようだ。この地方でも旭川では積雪があったと聞く。札幌は、今のところは、まだ雪が舞う程度だ。しかし、ストーブはもう日常生活に不可欠であり、冬用の衣服は徐々に本格モードに移行していく。靴も滑り止めのついた冬用のものへとチェンジを余儀なくされる。そして恐らくはこの1-2週間内に車のタイヤも、夏用のものから冬用のスタッドレスタイヤへの交換の時期だ。スーパーストアなどでは、ついこの前までは、一斉に冬の漬物用の大量の白菜や大根が並んでいた。そういう準備をする家庭も多いのかも知れない。また、賀状欠礼の葉書も少しずつ届き始めている。11月のこの時期は、欧米では、クリスマスモードに移行し始める。そういえば、昨年の今頃の時期は、それを英国で感じていたのだ。1年という時間がたつのは実に早いものだ。
この1週間の備忘録メモ。
11月9日(月) 午後、国際化ワーキンググループ会議。新たな国際交流協定の原案作成の役割が回ってくる。夕刻、組合執行委員会。第三回団交に向けての長い討議、その他案件多数。終了後、研究室に戻り、今週末の合同教研集会の日程プログラム案作成し、関係者に照会文を作成し、送付。帰宅後、夜半、翌日の講義準備。深夜、風呂の中で、つい寝てしまう。(トホホ・・)
11月10日(火) 午前たまった仕事の整理その他。午後、中期計画委員会会議。多くの案件。夕刻、教職関連の講義。終了後、研究室に戻り、講義感想文のマークと整理。いくつかの論文読み。指導院生の博士論文予備審査委員会設置の手続きの手配と書類作成。何やかやで、帰宅は遅い時間になる。外気が冷たい。夜半、英語文献読み。
11月11日(水) 午前は院ゼミ。英語文献の講読。レポート院生の遅刻で開始が遅れる。
午後、第三回団交用の資料に多数眼を通す。政策の詳細なデータ、全国各地の運動の詳細な資料、労働関係法の資料、過去の経緯等々。高等教育政策をこの種の視点で見ることは、勉強になることが多い。
4時 団交開始。この日は、当局は、異例に2時間以上対応する。ただし、6時半に交渉打ち切り宣言を行い、当局は一方的に席を立つ。これは、不当労働行為と言って良い。要するに、この日をもって、最終交渉としようする意図が明白であった。内容的にも、対応の不誠実さについても、不信を増大させるものであった。しかし、詳しくは、ここでは書かない。
この間の経緯その他の情報は下記を参照されたい。
http://ha4.seikyou.ne.jp/home/kumiai/
終了後、組合事務室で対応協議。散会後、研究室に戻り、国際交流協定関係の資料整理と研究室の配置換えをして気分転換。夜半、買い物をして帰宅。この日は家人は電話相談業務で不在。遅い夕食。
団交の当局対応の不快感が消えず、気持ちがザラザラした状態。夜半、伊集院静の『機関車先生』(1994)を再読。やや、気持ちが浄化される。
11月12日(木)
朝早くゴミ出しと犬の散歩。リードを変えて、先日のパニック事件の再来を防ぐ。朝食、後片付けその他で、ギリギリ時間で大学へ急ぐ。
午前、院生の研究指導ゼミ。午後早い時間に、国際交流協定原案作成。2時半過ぎから学部ゼミ。この日は帝国大学と講座制の歴史文献講読。5時半終了。急いで、H学園大学の大学院授業へ移動。英国成人教育の文献講読。この日は、事前のレクチャーで、多くを解説する。終了後、買い物をして帰宅。遅い夕食時、家人と網野義彦氏の晩年の日本史学構想について議論し、彼女の感想と意見を聞く。(家人は、学部時代、ブレークする前の網野氏の指導学生だった)
<団交 雑感追録>
大学高等教育政策というものを分析する場合、文献、書類・資料やネット情報、見聞情報、研究会討議、ヒアリングなどを通して分析するのが通例であるが、そうした通常の方法だけでは分からないパワーストラクチャーの生きた構造というものを、この間の組合執行委員会を通して学んだことも多い。
その一つは、国家官僚(文科省キャリア組)の思考と行動様式だ。他の政策官庁の場合、政策遂行過程を通してその思考方法を知ることが多いが、文科省の場合、審議会や予算編成上の政策については、そのように見ることも可能だが、高等教育、とくに国立大学法人への行政指導あるいは関与の具体的プロセスについては、詳細には良く分からないことも多かった。しかし、この間の組合と当局の交渉を通じて、彼らの行動様式について多少知ることも増えてきた。
例えば、人事院勧告に準拠するとして国立大学法人教職員の賃金、期末手当その他の不利益変更を迫る当局の対応には、接してみて不可解なことが多かった。不可解さの一つは、彼らの思考と行動は、東京(文科省)を向き、その指導を仰いているばかりであることである。その理由は、いささか知ってはいたが実際に接してみるとその通りであることが不思議であった。理由は、多くあろうが、少なくともその基本は、比較的シンプルである。彼らの出向の多くは戻りのある出向だからである。周知のように、本部事務局の中枢は、文科省出向組官僚が中軸である。その下に多数のノンキャリア事務職員(かつては現地採用の国家公務員、現在は国立大学法人職員)が所属することになる。キャリア組の多くは、在職中の経歴過程において、所属部署を多く変え、時には出向を繰り返す。他の省庁にひき替えてみれば、文科省は、地味ではある。かつては、○○番クラスなどと揶揄され、三流省庁などと霞ヶ関で言われたし、今もそう変わるわけではないのかも知れない。しかし、他の中央省庁のキャリア組がそうであるように、キャリア組内部にもハイアラーキーな階層秩序が存在する。そのトップ層は、激務であったとしても、最後は幾度かおいしい天下りを繰り返して不当な所得を得ることになる。たとえ、トップでなくても、キャリア組にはその世界の慣例による身の処し方と処遇が存在し、その道を踏み外さなければある種の見返りが待っていることになる。
ところで、文科省キャリア組は、国立大学法人に出向すると非国家公務員に変わり、「任期」(多くは2年ほど。なお、その期間は、地方に行っても東京の地域手当は継続される)を終えて本省に戻ると、国家公務員に「復帰」する。従って、一時的に、仮住まいとして所属する国立大学法人において、その立場から真摯に向き合い、時に文科省の政策に批判を迫るような帰属意識を持つことはあり得ないし、もしもそうしようとするとキャリア形成のルートから足を踏み外すことになる。本部事務局中枢官僚の意識と行動は、文科省所属の意識と行動の枠組みを一歩も出ようとしない理由の大半は上記に由来する。これでは、国立大学法人としての独自な発想はもてるはずもなかろう。本省からの出向組の人が、リップサービスとしてここに骨を埋めるなどと言っても、2年ほどして本省ないしはそれに準じた位置に、言ったことも忘れて平然と戻っていく姿を僕は幾度か眼にしてきた。無論、個人的には、誠実な方や、文化度も高い人もいないわけではない。違う場で会えば、話も楽しいであろう人もいないわけではないのであろう。(幸か不幸か、そういう体験はなかったが)しかし、組織の枠組みに縛られると、立場は限定される。とりわけ、労使関係という場などでは、そうした個人の良心や誠実さは、後景に退いていく。あるのは上司の命に従う官僚の姿勢ばかりである。僕にとっては、団交でのこの間のこの種の人々の対応は、落胆度が深まるばかりであった。
もう一つは、対極的に存在するノンキャリア組、とくに地方採用の職員集団、さらには非正規職員の方々の肉声を聞く機会が増えてきたことである。大学には多様な職種が存在する。そうした地の塩の役割を果たす人々の処遇の低さと、多様な働き方について、敬意をもって理解する機会が少なかったという反省がこの間しきりにするのである。林業技術補佐員とか、演習農場等の技術職、理系組織の技術技能職種、については文系組織の教員としては、日頃接点がなく、この間の組合活動を通じてようやく実感をもって理解されてきたのである。また、事務職種については、実に分野の多様な分野が生じてきていること、非正規職種については、まことに劣悪で不当な雇用状態がまかり通っていることを実感するのである。こういう人々と共に手をたずさえて、連帯感をもって、大学づくりを進めること、そういうことが、大学教員としてどれほどに深くあったのか、反省を迫られる思いを、この間の生きた学習を通じて考えたりしてきたのである。
なお、文科省からの出向キャリア官僚の下部組織や職員集団への冷ややかで高圧的な対応だけではなく、教員集団の一部にも、きちんとした教職協働の連帯の視点をもてず、高圧的な人々が一部に存在する。こうした人々がいることも、問題解決を遅らせている原因の一つである。これらの人々を変えることは容易ではない。恐らくは、無理かも知れない。従って大事なことは、高圧的な人々を変えることよりも、弱い立場の人々の連帯と人間的な処遇を求める声を増やすことである。そのことが、結局は、高圧的な人々への最大の反撃であろう。
団交の詳細は、ここでは書かない。それは、一応紳士協定というものであろう。
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