先週末土曜5月22日は、会議で日中は過ぎた。
この日は、全大教単組代表者会議であった。全大教とは、全国大学高専教職員組合の略称である。詳しくは、下記のwebを参照されたい。かつての日教組大学部から独立した組織である。
午前は、全大教北海道の各単組幹事会議がもたれ、午後は、全大教の中央執行委員を迎えての単組代表者会議であった。主要な討議課題は3つ(1.大学・高専の教育充実 2.賃金・労働条件改善 3.組織拡大・財政の確立について)であった。困難な課題と厳しい情勢は、相変わらずである。楽天的に積極的に考えるしかあるまいというのが、僕のスタンスだ。
討議内容の細部は、ここでは、省略しよう。
一日会議が続くと、思考のみずみずしさはどこかへ行ってしまう。
それもあって、リフレッシュを意識して、夕刻、封切りであった小林政広監督「春との旅」を待ち合わせた家人と観に行った。このところ、人生の四季(春=幼少期、夏=思春・青年期、秋=中向老期、冬=老齢期)の内、「秋」、「冬」の方を見つめることが多くなってきたように思う。自らも潜在的には、向老を意識しているからかも?
観終えて、いくつかのことが浮かんだが、感想の詳細はここでは書かない。
老いにも色々な相がある。文学や演劇にも深く考えさせるものも多い。エイジングの研究も相当程度進展してきた。老いを支える、医療、福祉、教育、社会保障に関する研究も広がった。NGO活動も盛んだ。だが、国や社会はどれほどに真摯に向き合っているのか。そして、老いは、すべての人が抱える問題でもある。
老いに関して、かつて観た映画を思い出してみた。
古い記憶にあるのは、黒沢明監督の「生きる」(1952)だろうか。僕が観たのは、大学生の頃だったから1970年代はじめである。なぜか、「生きる」ことの恐怖を感じたことを覚えている。制作のエピソードは、最近出張旅先で、橋本忍『複眼の映像』(文春文庫、2010)を読んで興味深いものがあった。
僕自身、考えて見れば、20代、30代はあまり老いを深く考えることはなかった。まあ当然ではあるのであろうが。やがて、40代頃から、徐々に多くの知見、体験、観察が加わるようになってきたというのが、凡人の僕の感想だ。
映画では、ヘンリ-フォンダ・ジェ-ン・フォンダ共演の「黄昏」(on golden pond、1981)、山田洋次監督の「息子」1991年、松井久子監督「折り梅」2001年、是枝裕和監督「歩いても歩いても」2008年あたりは、映画館に足を運んで観に行った。
衛星放送やケーブルテレビの便宜もあって、「ドライビングミスデイジー」1989年、「八月の鯨」1987年、「ストレイトストーリー」1999年、「海辺の家」2001年などはそれらで観た。
多分すぐには思い出せないだけで、フランスやドイツ、イタリア、英国の作品もあったのだろう。中国、韓国、イラン、ロシアあたりにそういう作品があるのだろうが、あまり記憶に残っていない。日本の作品も、多分いくつかは言われればそういえばそうだったということになるのだろうが、強く印象に残り記憶に留まっているのは多くはない。
羽田澄子監督の『安心して老いるために』(岩波書店1992年)は読んで感銘を受けたが、残念ながら、同監督の映画「痴呆性老人の世界」1986年はまだ観ていない。
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