上はハングルカレンダー。一日一語の語彙学習なのだが、なかなか身につかない。この六月も終わりだ。
水無月から文月へ。今日から七月だ。
語源辞書には、陰暦「水無月」(六月)の意味は、水が無い月の意味ではなく、「無」は連体詞の「な」で、「の」の意味。水の月という意味とある。
同じく、「文月」(陰暦七月)は、書道の上達を願った七夕の月にちなんでの意味とある。別説には、稲穂がふくらむ「穂含月」から来たとの説もあるらしい。
旧暦の季節変化をあらわすことばに、農業に関わる意味が多い。暦もその一つだ。農作業、とくに米作農家の方々は、この時期の天候は気になるところだろう。
ただし、僕には、水を豊かに張った水田風景を眺めることは、この六月にはなかった。毎日が、講義演習、委員会、多種多様な会議で過ぎていった。時間がなくてはかどらない原稿書きは、無力感をつのらせ、そうしたあげくの陰鬱気分と自己否定意識。我ながらいやになる。(読んでいる皆さんは不快でしょうから跳ばしてください)
さて、六月から七月になった。やたらと忙しいだけで、気分が重く、生産の上がらない日々であることには変わりがない。ブログの更新も遅れがちだ。
でも、気分は変えよう。
この間、参議院選挙の公示、FIFAワールドカップのベスト8決定、などが新聞紙面を飾っている。フットボールの日本チームは、非力ながら、よく頑張ったといえるだろう。あれこれの論評は、あるだろうが、そんなことを気にせずに、世界に向かって、技量向上と連帯と守備的かつ攻撃的で、しかも謙虚な姿勢を追求しようとした姿は確かにすばらしかった。
参議院選挙に向けて、政治論議が盛んになっている。以下は、素人の一市民としての感想だ。
鳩山政権から民意と関係なく、党内バランスから選ばれた民主党第二期内閣の菅政権は、その「変質」の本質がより鮮明になってきているように思われる。この点で、『世界』6月号の「メデイア批評」(神保太郎)は、この間の新聞論調の変化(後述する私見に関わって)を明確に批判していて面白かった。「「堀越事件」東京高裁無罪判決の意味ー「適用違憲」をめぐって」(奥平康弘)は、同判決の読み方とともに、なるほど、こういう法律的思考法があるのかと学んだ。なお、同号の「社会運動と政権」(湯浅誠)は、残念ながら、歯切れが良くなかった。この点では「新しい公共は社会を変えるか」(富田美和)「こがねのゆびわを渡したい-横浜事件の・・・」(木村まき)、「迎合、忖度、思考停止の「同盟」」(水島朝穂)、「小さな流れが大きな川になるように-9条の会とひさしさん」(小森陽一)は、明確な論旨と説得力があった。
この雑誌は時々購入して読んでいるが、凡庸な特集の時もあるが、時に成果もある。メデイア時評に書かれていたことは、我が意を得た気分だ。講読しているA新聞のこの数年間での変節論調ぶりは、目に余ると思っていたからである。
菅政権をもちあげているA新聞については、僕は40年以上の読者なのだが、落胆することが多くなってきたのである。社内のパワーポリテイックスがどうなっているかは分からない。しかし、F主筆、HO論説委員などが主流になり、HAY論説委員が退職するなどの動きは分かる。それが、紙面の論調を支配しているようだ。時々、社内のバランス上、主流の意見とは異なるクリテイカルな記事も同じ日の別の紙面にあったり(この場合、民主党と親和性のある自民党復活論だけでなく、多少の権力批判性をもつ記者たちの努力など、無論路線は一枚岩ではないが)、読者の「声」蘭が一番まともだったり、夕刊の文化欄などが他紙よりはすぐれているので講読をしているのだ。しかし、時にはもう止めようかと思うことが多くなった。とくに政治と経済の記事だ。記者の構成も左右しているようだ。地元紙やM新聞の方が時にはまともな記事が多いようにも思える。
例えばだ。沖縄の米軍基地問題、普天間基地移設問題報道しかり、小泉政権時代の生き残りを使った財政改革路線の提灯記事しかりだ。(なぜいつまでもT元蔵相が大きな紙面を使って登場するのかなど)横書き、グローバル記事を売り物にして新機軸をねらったGLOBEという月曜紙面も次第に、新自由主義およびポストモダン派の潮流紹介に偏重してきた。二大政党政治礼賛(この5月の英国の選挙結果をにらんでの早速の風見鶏として、第三極期待の記事もあるが、それもある特定政党のみの偏重扱いだ。)路線の上での現民主党政権の「現実」路線礼賛は、うんざりする。また、改革派首長たちの持ち上げ、民主党政権同様に、微妙に立ち位置をかえている政治学者たちの度重なる活用(名誉のために名を上げないが)、T大とA新聞の提携調査の恣意性、行政刷新会議の事業仕分けの礼賛、企業の優遇税制や所得税問題に触れず「消費税タブー」をなくし、勇気ある増税をなどの社説等々。
政権党として、民主党は、今や、財界からも米国からも、その「現実」政治政策の「信頼」を試されているのであろう。この点で、市川房枝氏を応援していた若き日の菅直人氏を評価する人もいるようだが、それは「幻想」というべきようだ。現在のその人物は、もともとそういう志向性を持つ人物だったのか、現実派政治家として「成熟」(変質)したのか、分からないが、最近の発言の「ぶれ」のなさの限り(失礼、訂正。ブレは民主党の本質だ。管氏も、多分ブレるだろう。)、「立場性」は変えたようだ。その限りで、大物元首相のN氏に褒められているのは、皮肉なものだ。
そして、この政権を支えているA新聞に限らず、一部メデイアの論調もポピュリズムの体質を基軸としながら、微妙に軸足を変えてきた。元々、旧自民党政権を支えていたY新聞や民放テレビ局も、この現実派政権への批判は鋭くないようだ。「在野性」を有していたと思われた(戦時中の大政翼賛会的報道などを見れば、元々そんなものはなかったのだろうが)A新聞も、結局は、The Fourth Estateあるいは「情報権力」としての役割を顕在化しているだけなのであろうか。英米系新聞のメデイア大資本による買収劇とその後の論調変化は比較的知られていたが、最近、フランスのルモンド紙は、その買収先が現政権のサルコジ派ではない左派系のところに行きそうだとの報道がある。これは、皮肉にもフランス的皮肉というか、別のカウンター勢力の動きなのかどうかは良くは分からない。ともかくも、報道資本とジャーナリズムをめぐるパワーポリテイックスは、本来は厳しいものだ。しかし、日本の場合、そうしたことは見えにくいように思われる。(欧米の新聞の明確な政治的立場性とは異なり、「不偏不党」をうたう(実はそんなものはあり得ないのだが)日本の商業新聞の立場性の問題もあるようだ。)
とはいえ、若者たちは、テレビも見ないし、新聞も読まない。頼るのは、ネット情報と口コミと自分の好悪感覚だけだと言われる。確かに、僕の周辺の学生を見ていても、そのように思われる。それも危ういところだ。
政治の季節の中で、あふれかえる政治的プロミスあるいはマニフェストの洪水(貸し金業の甘いささやきが、後の取り立て文句と同じ口から出ているように)のなかに、どれを真実と把握するか。
僕たちのリテラシーが問われている。
最近、少しお金をはたいて加藤周一自選集を求めた。(現在9巻まで刊行)著作集は、その次に考えよう。
柔軟にして、視野広く、かつ専門的にして、揺らぎのない自分をいかに構築するかだ。
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