まずは、excuseである。
8月に入って、たまっていた仕事に連日とりかかっている。ときに委員会や、院生・学生指導、その他社会的仕事が入るが、ようやく時間がとれるようになった。とはいえ、圧倒的に時間が足りない。
ブログも更新がこの間できなかった。
前号の続きをまず書こう。
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プルム学校調査(その4)
2010年7月28日(水)
朝食後、プルム学校専攻部に移動。
1 白(ペク)スンジョン先生のインタビュー(9時ー11時)
ペク先生は、韓国歴史が専門の歴史学者である。全北大学校(歴史学、教育学)卒業後、同大学院修士課程で歴史学を修了され、ドイツのチュ-ビンゲン大学(Eberhard-Karls-Universität Tübingen)で歴史学の博士学位(ph.D)をとられた。その後、ベルリン自由大学で教授として韓国学で10年間教鞭をとられ(韓国の歴史と文化)た。そして、マックスブランク研究所で2年、フランスの高等社会科学院で研究員をされて、帰国された。帰国後は、ソウルにある西江大学校(サガン大学)で教授をされていたが、プルム学校専攻部ができるときに、その理念に共鳴して、サガン大学を定年前であるが、辞められて、こちらに移動された。今は、歴史学を、教員(講師)として教えられているのである。華々しい経歴のスター格の先生である。学問的に厳密なお話しをされるが、人柄は柔和で、謙虚かつ気さくな先生である。
マイクロヒストリーが専門領域であり、学生たちには、学校での正規の歴史の学習、地域の歴史学習、自分と自分の周りの歴史学習を統一させる学びを一緒に行っておられるという。
プルム学校に赴任される理由のもう一つのきっかけは、ペク先生の恩師であったイギベク(李基白)先生の恩師がプルム学校創設者のイチャンガ先生であったことである。日帝支配時代に、独自の民族学校をつくろうとされたその理念や哲学に心を動かされたとのことである。
インタビューの質疑では、なぜ正規の大学の職を辞めてまでこの専攻部に来られたのか、既存の大学の功罪、マイクロヒストリーというのは、歴史学の中でどのような方法と位置づけをもつ学なのか、プルム学校がめざす単に農業を担うだけではなく、人文科学、芸術、宗教などの生きた教養、深く考え、表現でき、他者とコミュニケーションができる全人教育の具体的な一端をご教示いただきたいなどの要望を出したが、それらに答えられる範囲で明確にお話しをいただいた。詳細はここでは、省略する。いくつかの、印象的なことばやエピソードがその中にはあった。
ただ労働するだけなのは、牛に過ぎない。ただ勉強するだけの者は、○○(通訳のSさんは鬼と言ったが意味が通じない)に過ぎない。
植民地時代には、教育の自由がなかった。解放後の時代には、自由な実践をめざすが、民主主義の成熟と熟成が必要だった。
国からの統制を受けず、学校の自由な教育ができるが(専攻部)、人格形成と労働の統一、知識と労働の融合が難しい。農業労働は、自分を取り戻していく上で、重要な示唆を与える。
歴史と文学を学ぶことを通じて、自己反省の力を得て、人間の持っているものを取り戻せる。物質中心主義を乗り越えて、農村の新たな社会化、再生を行うことが、社会全体のあらたな展望を創り出す。
専攻部の学生と教員は人間的な信頼とつながりが強い。単なる教員と師弟関係にあるのではなく、卒業すれば同じ同僚関係になる。
プルム学校は、社会や自己に対する省察的方法を学ぶことを重視している。創業論文(修了論文)は、学生にとって極めて重要な意味をもつ。論文指導での支援や指導を行うが、主体は学生。そこでは、それまでの自己の傷ついた過去をとらえかえし、新たな自己の像を描きだすというヒーリング効果もあり、また地域に学んだ成果を返していくという実際的効果もある。
専攻部は、学習文化共同体を創り出す拠点であり、核になることを願うが、その意味は一つの形式をそなえた学校といういみではなく、人々の生業を可能にする農業文化をはぐくみ、人々を統合する連携を生み出すという意味である。
やや強引に要約してみると、おおよそ上記のような考えをお聞きすることができたように思われる。
現在のプルム学校専攻部の実際のカリキュラムデザイン(教育課程編成)、学生教育の実際上に生じる課題、今後の展望については、現在教務部長をしているジョンミンチョル先生が適切というので、途中から加わっていただいた。(上記写真の左の人物)
なお、ペク先生は、プルム学校を理解する上で不可欠な本を3冊紹介いただいた。一つは、創設者のイチャンガ先生の論文講演集(1983年)、二冊目はペク先生ご自身の著作、三冊目はホンソンミョン先生の最近刊行されたプルム学校の歴史という本である。いずれもハングル文で、邦訳はないが、通訳兼共同研究員のSさんに要約してもらうべく、購入した。
2 ジョンミンチョルさんのインタビュー(10時50分くらいから加わっていただく)
まずは、専攻部の設立経緯である。ジョンミンチョルさんのお話しでは、当初は、5年間一貫の中等+高等教育機関構想であった。しかし、経営や、現実の学校システムの接続関係から、3年間は高等部(高校教育)、2年間は高等教育(専攻部)として切り離し、その有機的接続をめざしてきたという。その結果、高等部は、高校教育として当初必ずしも順調な道筋ではなかったが、代案学校としての評価や、進学実績もできてきて、人気が出てきた。経営的にも安定してきた。しかし、このことの批判も承知している。曰く、国からの補助と引き替えのカリキュラムの制約、農業中堅人材育成では必ずしも専攻部には進まず、一般大学に進学するものが大半になっている、等だ。
しかし、他面では専攻部は、農業と地域の有為な人材育成の機能に特化できてきた。専攻部は単に学校というだけでなく、成人教育、大学学部卒の人の再教育、帰農教育の役割を果たしてきている。
80年代は、プルム学校の教師が、地域に出かけていき、地域の多様な運動のリーダーシップを発揮する役割であったが、やがて地域の人々が参加してきて、また帰農者も増加Iしてきて、農業技術や農業生産の部門では、地域の人々がリーダーシップを発揮し始めた。最近は、地域の人々が学校を支援したり手伝うようになった。そこで、専攻部は、その技術面などで、専門的人材を得て、あらたにリードできる力を蓄えてきている。
プルム学校は、高等部も専攻部も地域と共にある学校だ。しかし、教師は多忙すぎてはいけない。地域の仕事が増えて、肝心な学校での教育の仕事がおろそかになってはいけない。そこで、地域への貢献と学校教育それ自体の貢献の中間的折り合いをどこに見つけるかで苦労した。今は、マシリ学校を組織して、学校教員以外に、学校生協、本屋、木工館、生産者農業組合、農業研究グループなどが定期的に集まれるようにした。それによって、課題の共有と分け合いができてきた。
プルム学校が地域に根を張って50年以上になると、様々な影響力を持つようになってきた。卒業生の定着や活躍もあり、有機農業、循環農業、協同組合、学校の一体となった地域展望が可能になってきた。その分、ホンドン地域が有名になり、どれをとってもプルム学校の影響と言われるようにもなってきた。それは嬉しくもあるが、半面では地域の人々の反感もおきることになる。ホンソン郡レベルでは、他の多くの活動もある。なるべく、プルム学校以外の活動を尊重して、人々のつながりを多様に豊かにしていくことが課題となっている。
プルム学校の教員も、当初は生活的にも、教育実践においても多難な時期を過ごした。現在は、経営や教職者の確保も以前よりは安定してきた。しかし、安定は危機である。枠を越えての挑戦的な、創造的な精神が、プルム学校のいのちである。そこで、障害児の受け入れなど、新たな挑戦をはじめて、農業と、全人教育の結合の現代的な有効性を探究している。どちらかと言えば、プルム学校高等部は目的が人格教育で、手段は農業教育、専攻部は、目的が農業教育で手段が人格教育である。この人格教育と農業教育のバランスをいかにとっていくか、困難をのりこえる力をいかに築くか。プルム学校の教員の中で、いま激しい論争を徹底して行っている。論争をしても人間関係がおかしくならないつながりを築いてきたので、それができている。
地域の発展計画を自律的に生み出していくこと。それには、中心センターが必要である。プルム学校は、その一つをになってきたし、にないたい。
ミンチョルさんの情熱的で精力的なお話しと応答はおおよそ、以上であった。
昼食時には、公州大学校の李達雨(イ・ダル)先生が、ご丁寧に昨日渡せなかったとおみやげをもって立ち寄られた。昼食を共にして和やかな時間を過ごした。イダル先生は、午後は教職関連の講習講義があるとのことで戻って行かれた。
昼食後、午後は、プルム学校卒業生のお二人へのインタビューを行った。
3 最初は、ジュハンさん(現在有機農業での稲作を父親と共に行っている)のインタビューであった。
ジュハンさんの両親は、共にプルム学校卒業生であった。将来農業をしたい、人格教育もあるというので、抵抗なくプルム学校に入学した(37期生)。学校では、教員たちが地域に住んでいて、授業にも親しみがもてた。学校時代を思い出すと、寮生活が一番楽しかった。共同生活で、友達も多くできた。また農業を実地に学べたことが良かった。
卒業後は、慶北大学に進学し、園芸科で学んだ、在学中に兵役にも行った。休学もしたので、大学卒業は、2009年2月であった。ホンドンに戻って、父親の仕事の後継をめざしている。稲作は、1万坪の水田、牛40頭(肥牛)、畑も少しやっている。4Hクラブにも入って、農村技術センターとも連携して、この地域の農業革新を話し合っている。園芸では、専攻部の呉ド先生にも多くを学んでいる。彼は、今新婚である。お相手は、大学時代の同級生とのこと。話がはずんで、これまた写真をとるのを失念した。
4 次は、ジュハンさんの道先案内で、今度はシンジュンス(申準秀)さんを訪ねることになった。
申ジュンスさんは、33期生の卒業生である。31歳。父親もプルム学校の卒業生であったが、父親の時代は、学校は問題児ばかりで、貧しい家の子、それぞれ学業も芳しくないとの状況があって、ジュンスさんがプルム学校に進学することにあまり好意的ではなかった。しかし、彼は、牧場の手伝いをしながら、農業に関心があったので、進学に迷いはなかった。進学の理由は、今思えば、農業に興味があったこと、全人教育や多面的教育が惹かれた、しかし、勉強するだけは嫌だったので、プルム学校が良いと思ったからである。
学校は面白かった。科目では、国語と文学が面白かった。しかし、農業技術学校なのに、農業を深く学ぶにはカリキュラムに余裕がなく、選択できる幅がなかった。しかし、寮生活は楽しかった。キリスト教を学べたこと、実習などでは農業を自由に学べたことも良かった。入試のためでなく、自分自身の学習ができるということでは、自分の努力不足もあったが、すこし残念な面があった。卒業後は、水原農業大学に進学した。食料作物学科だった。農業を広く学べて良かった。ただしプルム学校も稲作中心、大学でも稲作だったので、実家の酪農や畜産の勉強はできなかった。大学卒業後、実家に戻り、酪農を父親と一緒にやっている。搾乳27頭、子牛が15頭いいる。現在、生乳600lを毎日搾乳し、全量をヨーグルト加工している。この地域だけでなく、販路をもち、一定の信頼を得てきている。ヨーグルト加工は、2003年の牛乳生産過剰のときがあり、余った牛乳の加工を考え、ヨーグルトやチーズを考えた。製品の直送、直売システムは、日本にも見学に行き、セミナーにも参加して学んできた。2007年に、全量ヨーグルト加工に決断して、いままでやってきている。現在は、30-40%を企業に納入し、残りの70%位を配達・直売している。一般家庭、保育園、地域の店舗に配達している。
質疑では、酪農と環境問題、屎尿処理、卒業生の活動、今後の夢や展望を聴いた。彼は時々、私たちの日本語に反応して分かっているようだったので、別れ際に尋ねるとパートナーの奥さんは、日本人。プルム学校で、日本語を教えているHさんだったことが分かり、納得。世界は狭い。
5 夕刻は、ホンドン農業教育館で総括集会と、インタビューをお願いした方々との交流会であった。日本側で招待しての集いである。
詳しくは、ここでは書かないが、各調査グループ(学校、生活、協同組合、農家)の中間的まとめを行い、質疑を行った。今回の、それなりの成果が伺えるものであった。
宿舎に戻り、簡単な祝杯をあげた。7月29日翌朝は、4時半起き、5時出発で空港へ行くことになっていた。
再び、この地を再訪するのも遠くないであろうと思いながら・・・この日は終わった。
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