7月27日(火)
朝食後、プルム学校専攻部に移動。
午前は、ホン・ソンミョン先生へのインタビュー。
主要な質問事項は、プルム学校専攻部の、教育的特色、地域のニーズと学校の教育理念の関係性、教育課程の制度設計、学習教育文化共同体構想と地域住民大学としての専攻部の役割、新設される図書館の基本理念・構想などであった。
例えば、学生の卒業論文(ここでは創業論文と命名している)の果たしている役割、地域の農業発展や人材育成に果たす専攻部の役割、プルム学校の代案学校としての性格、国家の制約に縛られないカリキュラムデザイン、1クラス15人以下2学年、教員は専任10人、兼任講師10人の20人のスタッフ、全員で50人程度の規模での生活学問一体型の暮らし。自給自足を保持し、実際的学問と全人教育の文化の香り高い教育を、互いの信頼と尊敬の中で形作っていく体制など、この間に形作られてきた教育事業の骨格を伺った。また、地域との連携の中では、マシリ学校と称される毎週持たれる地域の8団体との自由な交流の場、卒業生の地域定着と多くの地域の方との相互に協働しながら進める地域づくりの実際の事例を知ることができた。(なお、一連のインタビューを踏まえた調査報告書は、別途刊行されるので、詳細は省く。)
昨夜お会いした公州大学校のヤンビョンチャン先生は、遅くに帰宅された後、この日の朝、再び専攻部のインタビューに加わられた。同大学大学院生の通訳のキムボランさんも加わった。この日の夕刻には、公州大学校の先生方とお会いする予定でもある。
創設1958年初期の教員と学生。
三階建ての図書館が、多くの人の寄付金とボランテイア労働奉仕によって、棟上げが終わり、内装に向かう建築途上である。1室は、「日本学研究」図書の部屋となる。1階には、カフェ、レストラン、二階には小ホール、芸術展示、農学・自然科学、韓国学、社会人文科学などの重要な図書・資料が整備されていくことになる。専攻部は、地域の教育文化共同体の拠点であり、発信の機能を強化することになる。
中庭には関連施設がつくられる。
ホン・ソンミョン先生のインタビューを終えて、昼食後は、専攻部の教員の方々のインタビューである。
最初は、チャン・ギルソップ先生である。専攻部の教師になったきっかけ、教育実践で力を入れておられること、農業教育と人文教育との融合についての観点などをお聞きした。元々は、『緑色評論』という雑誌を編集されていた人であり、英国の雑誌にも関係されていた。循環農業に興味を持たれ、農業を10年ホンドン地区でやられ、2002年から専攻部の教師になられた。教員をしながら農業も継続されており、6000坪の稲作、他に畑作など有機農業を総合的に実践し、研究教育されている。共生共楽、共生共貧という言葉が印象に残った。自給自足を土台にすえていれば、賃金の低さはそれほどの問題ではないとのこと。
次は、呉ド先生である。この地域からほんの少し先の生まれである。プルム学校28期の卒業生であり、4人兄弟の3人がプルム学校を卒業し、親は有機農業の先駆者であった。プルム学校卒業後、日本の神奈川にあるK女学園大に留学し、園芸と野菜を学んできたという。日本語は、まったく不自由なく話される。
韓国では、園芸は後発分野であり、花というのはお金持ちのプレゼントというイメージがあったが、実際にやってみると野菜作りと変わらない方法があり、そのように考えてみれば、韓国の地域には伝統的な園芸の方法があったことに気づいた。K学園では、1年野菜、2年間花卉と花壇を学び帰国した。
済州島で2年間植物園で働き、ホンドンから1時間半くらいの千里浦樹木園(米国人が始められ、その人は韓国に帰化された)でも3年間実際の技術を学び、2003年からプルム学校専攻部で働いているという。
ハーブガーデン、パーマカルチャーなどを指導し、障害者の園芸指導や地域の園芸講座も担当しているという。K学園は、国際、園芸、聖書を学べたので、プルムの精神と通じたものがあったという。現在の夫も、こうした中で出会い、中学の教師を辞めてこの地域に引っ越してきて、英国でも園芸やガーデニングを数年間学んできたという。お子さんは一人いる。
呉さんは、専攻部で働きながら、地域や学生からも日々学べて、自分のやりたいことをしているので、とても幸せな人生を過ごしていると思うと言われた。プルム学校には、教え学ぶという以上のものがつまっているという。夫君は、山の観察を行い、この地域の生物多様性を、小学校とも連携しながら子どもたち、地域の人々、小学校の教師たちと一緒に学んでもいるという。昨年ホンドン小学校で、聴いたときの地域のその道の専門家というのは呉さんのご主人だったのである。
話がはずんで、呉先生の写真をとるのを忘れてしまった。
週間時間割。日本語でも表記されている。
次は、専攻部学生の李デアムさんである。
李さんは、入学の動機は、ソウルの大学を卒業したが、個人的にどのように生きたら良いか悩むことが多かった。帰農運動や帰農プログラムの中で、プルム学校専攻部のことを知り、応募したという。ソウルで生まれ育ち、ソウルの大学(彼は言わなかったが、SNUである)を出て、職業生活もしたという。在学期間には、軍隊経験もある。プルム学校には、3年前から合格していたが、家族は猛反対であったので、結局入学するためには3年間かかったという。29歳である。考えながら、ゆっくり言葉を選んで話す人である。都市は頭だけを使うので、農村に来て、この学校で体を動かし、他方で深い学びを一流の個性的な教員を通してできるので、自分を回復できている。競争の学びではなく、共同の教育に共鳴するが、今の自分には、そのコミュニケーションが下手だと思っている。ただし、専攻部の学生の中には狭く、個人の農業中心のメンバーもいるので、自分としてはもっと社会の広がりの中で、農的な価値を考えたいという。ここに来る前も来てからも本を読むことからの影響が大きいが、教師からの影響も大きいという。チャンギルソップ先生の影響は大という。午前講義、午後農業実習のリズムの中で、人文学によって冷静に考えられることは助かるという。
彼から真剣に聞き取りをしていて、これまた写真をとるのを失念してしまった。
この日最後のインタビューは、N優子さんである。日本人の留学生である。プルム学校と姉妹校である、三重県のAN学園の出身である。プルム学校専攻部には、既にAN学園からは2人の卒業生がいるという。AN学園の3年の夏休みに2週間プルム学校に体験入学して、すっかり気に入って、独学で韓国語を学びながら、卒業後、専攻部に入学したという。家族は、祖父母が農業をしていたが、韓国行きには反対であった。子どもを6人育ててきた母親が背中を押してくれたという。最初は言葉や習慣、色んなことが分からなかったが、3ヶ月過ぎる頃から聞き取りができ、生活にも慣れてきた。講義は必死になって勉強した。本当は酪農を志していたが、プルム学校は稲作中心であったのでとまどったが、今は面白いという。現在、地域にカフェを出店し、専攻部の仲間と共同で、経営している。畑や野菜作りもしていて、楽しいという。1年目は、母からの仕送りであったが、2年目からは、日本語教師やカフェの収益で何とか暮らせている。とはいっても、一月2万数千円あれば暮らせるし、半年で15万円で学費と生活をまかなえるという。食事は、自給自足だし、使うことも余りないという。創業論文(卒業論文)は、講義での歴史の勉強が刺激的で、「自分の歴史について」を主題として、自分をとらえ返したいという。卒業後は、日本でも韓国でもいずれでもよく、自分のしたい道を探したいという。きらきら輝くという言葉がぴったりな、すてきな瞳の娘さんだった。
インタビュー終了後、ヤン先生が、僕たちをつれて、今度は、公州大学校の先生方と黄海側の保養地に行き、食事を共にすることになった。
ホンドン地区から車で40分ほどの南唐里(ナムダンリ)という地名の漁港地である。
崔師範大学長(教育学部長)、金工学部長も参加されていた。2週前に、札幌を表敬訪問され、その際の当方側のホスピタリテイへの返礼の意味もあるという。こういう応答も韓国の方々の礼儀というか、頭が下がる。
新鮮な魚貝料理を囲んでお互いの交流をなごやかに行った。散会後は、ヤン先生には、宿舎までお送りいただいた。多謝の限りで、いつもそのお人柄に頭が下がる。挨拶をしてお別れした。
戻った宿舎では、農家調査、協同組合調査グループを中心に、宿舎の農場のご夫婦、プルム学校専攻部の教師、地域の篤農家の方々を招いての焼肉パーテイの最中だった。談論風発、盛り上がっていた。
ここにも合流して、夜半の野外星空の下での交流となった。
調査日二日目はこうして終わった。
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