9月19日、例によって出発前までの雑務処理多く、明け方仮眠の後、始発の地下鉄、JRを乗り継いで新千歳空港に向かう。札幌-新千歳間は、ひたすら眠る。8時発の関空行きのフライトだ。前夜からの台風情報で、飛ばないかも知れないという情報もあったが、どうやら大丈夫のようだ。同じ目的地の院生諸氏も多いようで、機内で隣になったのも社会人院生のHさん(娘さんと同行)、一つおいて隣にSさんだった。
僕は、朝早くて朝食抜きであったので、売店で買ったS水産のお結び弁当を機内で食して、その後しばらくしてからまたひたすら眠った。
関空で他の院生諸君や同僚のMさんが鉄道で移動するとのこと。僕は、荷物もあったので、別れて、リムジンバスで和歌山に向かう。関空の橋から見える海面は、台風の余波か、荒れ模様だ。
JR和歌山駅からタクシーでホテルへ移動し、荷物を預け、バス時間を聞いたが、どうも間隔が長くて、間に合う見込みがない。その足でまたタクシーで大学に向かう。少々移動に経費がかさむが、しかたない。
早く着きすぎたきらいがあったが、遅れるよりは、ましだ。プロジェクト研究とパネルシンポのうちあわせがあり、午後は、シンポ本番。
「現代教育の構造と教育法体系の関連」がタイトル。登壇者は3人。それぞれのタイトルは、「中央教育審議会答申の検討」「社会教育法を現代労働問題から問い直す」「「学校教育と社会教育」の関連を問う」である。僕は司会・進行役だ。法の規制緩和と脱制度化、そして構造改革的な法改正。これを、現実動態、学会の研究方向と方法論、関連領域における政策動向や法改正とリンクさせながら、新たな切り口や、理論の再構築をはかっていくことが課題だ。プロジェクト研究部会内部もそうだが、この日の学会報告の場でも、5人の質問紙での意見を含め、フロアーから活発な議論と問題提起がなされ、それに対して報告者が丁寧に応答され、討議が深められていったことはまずはよかった。この内容は、学会通信に書くことになっているので、ここではこれくらいにしておこう。
終了後、僕は今期は理事をはずれているのでフリー。同じ身のOさん、OHさんとホテルチェックイン後飲みに出ることにした。偶然、一緒になったNさん、Sさんも同行する。
この模様は、Oさんのブログ「酒中日記」に早くも紹介されていた。NIKONの大型デジタルカメラを放さず、出てきた鯨のお造りを写されている。また、食したその日の一品と、地酒名が記されているのは、「酒中日記」らしい。
http://blog.livedoor.jp/masao55ota1/
ちなみにOHさんもこの春からブログを始められている。http://blog.goo.ne.jp/arita45oogi/e/1af09d9dc71b5a1a6d001a14aff3515d
団塊世代のそれぞれの人生模様だ。そして、書くべきことが多い時代なのだ。
今回、旅先でのブログ書きは、初めてのこと。慣れぬこともあったが、カメラメモリの変換器が必要だったことは来てみて気づいた。携帯のカメラの方が簡単につくれそうだが、ま、それほど執着するほどの書き手でもない。学会の内容は、帰宅後に「その2」で書くことにしよう。
学会会場の和歌山大学。経済学部、教育学部、システム工学部、それに近年できた観光学部の4学部構成。山というか丘陵を利用しての城郭公園的キャンパス。一時期の大学移転による新キャンパスは、都心を避けて同じようなタイプの立地が多い。国立大学では、広島大学、大阪教育大学、福島大学、愛知教育大学など、私学では、中央大学、広島修道大学などいずれも同じような形態だ。和歌山大学の場合、公共交通機関は、JR和歌山駅や、南海和歌山市駅などからのバスしかアクセスがなく、やや不便だ。僕は今回は、タクシー利用だった。教職員は恐らくは車利用が多いのだろう。さて、学生はどうしているのだろう?
和歌山城は、戦災で焼失、1950年代に、近代工法で再建。城郭公園となっている。これは、ホテルからの眺望だ。
和歌山県は、人口が現在かろうじて100万人を超える規模で、減少の一途という。あらゆる数値が47都道府県中、40数位とか。預貯金高のみは、5位とか聞いた。財政や、人口などでは、100分の1県と自嘲気味に言われることがあるようだ。和歌山市もやや人口が減り、30数万都市で、夜の繁華街もわびしい感じだ。しかし、南紀の自然、高野山、紀ノ川、などの観光自然資源、徳川家ゆかり紀州の藩としての誇りなど、歴史と文化のある土地柄だ。
僕は、学生時代以来、5-6回目の来訪だ。最初は、学部3年終わりの時の日教組時代の和歌山での教研集会への個人的見学参加。寒い日に、小学校の体育館で、小さないすに座って報告を聞いた。僕の前の方では、当時助言者の小川太郎先生が座っておられた。報告にうなずきながら聞いておられたことが印象的だった。この参加記は、確か、当時のN大学の僕らの学生編集の冊子『止揚』(プシケ)に書いた記憶がある。残念ながら、度重なる引っ越しでその現物を散逸してしまったのが惜しい。(なお、小川太郎先生は、神戸大学を定年退職後、日本福祉大学に移られた。学部4年だったか、非常勤講師でN大に講義に来られていたが、すでに体調を崩されており、受講していた僕には、休講が多かった記憶がある。)
さて、和歌山には、その後、気のあった友人たちと学部卒業旅行で紀伊半島一周したことがある。旅の終わりには、後に、新聞記者となったK君と共に、やや好奇心もあって、当時フィリピン山中から「帰国」したばかりの小野田元少尉の実家を見に出かけた。その列車の席で偶然であったが、向かいに座っていたのが作家の野坂昭如だったことが記憶に鮮明でなつかしい。その後は、断続的な和歌山入りである。90年代には、非常勤で行っていたNF大学での夏合宿で南紀に幾度か行った。また90年代初めの和歌山教研集会(これには僕は共同研究者として)参加、さらには、最近では、和歌山大学生涯学習教育研究センター主催の高大連携シンポなどへの報告参加があった。(僕の研究グループのT君は、和歌山大学の高大連携の実践をを修論に書いた。)そして今回の参加だ。
僕は少しは和歌山に縁があるようだ。しかし、関東近辺の友人たちや北海道からの参加者の他の人に聞くと、初めて来たとかいう人が多いのが意外だった。
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