3月15日(日) 晴れ、温度はやや肌寒い感じだ。
9時半頃、HIさんから電話があり、Hさんとイルクリーへ行くことになった。安いというので、ウエストヨークシャー範囲の一日券を求めた。ヘッデイングリーでHIさんが乗り込んでくる。イルクリーまでは50分ほどだ。終着点に着いて、そこから丘まで歩き、眼下に広がる景色を楽しむ。典型的なヨークシャーの風景だ。やや冷涼ではあるが、太陽の光と熱を体に感じる春の風が気持ちよい。僕はベンチに腰掛けてしばらく風景に見とれていた。眼前には、淡い緑を敷き詰めたような牧場と森が広がり、その中に点在する村々が見え、間を抜ける道路に車が小さく動くのが見え、鉄道列車が横切っていく。視線の中には、子連れや犬をつれたカップルの人々が絶え間なく丘の上の大きな岩山をめざして動いていくのが入ってくる。無為なようでほっとする時間だ。自然歩行路をたどって帰路につく。小用も兼ねて、駅前のパブに立ち寄り、そこでビールを飲み、リーズに戻る。ハイドパークコーナーのフィッシュアンドチップスの持ち帰り店で昼の食材を求め、ホテルで食す。ラグビーのイングランド・フランスの試合がBBCでは放映されていて食後観ながらウトウトする。夕刻、HIさんのフラットにHさんと一緒に行く。色々な話をする。4号室は、調度品がそろっていて、僕のいた6号室と大違いだ。僕は、メールチェックをさせてもらう。色々な話の後で、適切な時間においとまする。帰りは、近くの停留所でバスを待つが、なかなかこない。あきらめて歩くと、途中で4台ものバスが通り過ぎていく。しゃくではあるが、しようがない。ホテルに戻って細君から依頼された英文を訳して、携帯メールで送る。アルコールで体が重い。
上は、リーズでのこの間の定宿にしているB&Bホテルである。
HIさんのフラットでの夕食会で。
3月16日(月)16度 晴れ
朝食後、ホテルでもメールを使えることがわかった。ヨークのホワイトローズから確認照会への回答や、日本からの緊急のメール用件への応答があって出発時間が少し遅れる。また、朝に、友人のコリンとの電話で、この日に会えるかも知れないとの話があったからだ。Hさんが心配そうなので、ヨークへ駅に急ぐ。リーズ駅に行くと、ヨークへの列車はたくさん出ていて、時間的には余裕があった。エデインバラ行きの列車が遅れて到着したが、ヨークには30分ほどで到着。タクシーをつかまえてヨーク大学へ。約束時間に、30分も早く着いた。サイエンスパークの全英自然科学学習センター(NSLC)の建物で、今回のインタビュー相手のジュリアン・ホワイト氏を待つ。同コンソーシアム若手研究員のクレイグ・ウオーター氏、電気学科のトニー・ウオード氏、自然科学学習センターのジョン・ホールマン氏が参加してくださる。レストランで食事して、自然科学学習センターの概要をジョン・ホールマン氏から聞く。現職教員のブラッシュアップ施設のようだ。2つの弱点が現職教員にはあるという。一つは、教科の専門性、修士学位不足、もう一つは教授法の弱さ、その二つを集中的に強化する宿泊型の施設である。3日間の集中プログラム+現場に戻ってから2-3ヶ月の実践+2日間の評価、検討プログラムを随時受け付けているとのこと。トニー・ウオード氏からは、電気学分野のボローニャプロセスの概要とデータを頂く。ジュリアン・ホワイト氏からは、質問状の全体への回答とホワイトローズの活動について伺う。より詳しくは、またデータを送ってくださるとのこと。初対面でもあったこと、内容についてのどこまで話すのかの困惑もあったかも知れない。しかし、丁寧に応対いただいた。適切な時間になって、おみやげを渡してから、タクシーを呼んでもらい、おいとまする。ヨークでリバプール行きの列車に飛び乗り、リーズに急ぐ。リーズ駅に、30分で着いて、バスで大学に向かう。LLIのHIさんの部屋に行くが、ドアの名前が違っていて別の部屋をノックして反応無く、Hさんの復路航空機のオンラインチェックをお願いしていたが、弱った。ブラザートンライブラリのカフェで、ロンドンからリーズに来たPさんと東アジア研究日本部門のカロライン・ロスさんの打ち合わせ場所にHさんにも同行いただくことにした。Pさんの本のコメント役を頼まれていたらしいカロラインさんが、近く6週間のサバテイカル研修で日本に行く計画を聞き、サポートできることの幾つかを話す。途中、HIさんから電話があり、ずっと部屋にいたとのこと。それで、Hさんに行ってもらい、Pさんとカロラインの日本研究の話に加わる。ひとしきりして、話のメドがついたところでお二人とは別れる。LLIに行き、ミリアムの郵便箱に、この間の写真を置いていく。HIさんの部屋をのぞくが、仕事中なので、新聞コピーをもらうのを忘れてしまった。コリンとの会合は、彼が今車を使えないことから(こわれていて)移動が難しいとのことで、次回にまた会おうということになった。ホテルに戻ってから、Hさんと夕食を一緒にということで、近くのインド料理へ行く。インドカレー、前菜などと共に、二人でワインを二本あけた。ホテルに戻ってベッドに早くに潜り込んだ。
ヨークに向かう道の途中での白い花の開花。種類が分からない。ヨークのホワイトローズでの写真は、僕がインタビューをしていたせいもあって、余裕なく写真をとるのを忘れてしまった。
3月17日(火)風が冷たいが温度はさほどではない。
朝食後、ヘッデイングリーの郵便局に歩いて行く。例の年末に送ったのに日本に届かない3つの小包の件だ。歩いて向かう途中、友人のケビンに電話して、彼の声を聞く。重篤な難病と闘病中のケビンだが、この日は体調が良いとのことで、会える時間がつくれるか検討するが、僕の予定のこともあって、無理であった。それでも、彼の元気な声を聞き、再会を約束できたことは良かった。郵便局では、列に並んで待って、ようやくたどり着いた窓口での局員の対応は事務的でそっけなく、調査依頼の紙を渡されただけだ。ロイヤルメールの質はどうなっているのだろう?気落ちしてホテルへはバスで戻る。お昼に大学に行き、食後、本屋で時間をつぶし、今日のインタビュー相手の友人のジェレミイ・ハイアム教授の部屋に行き、かれから短時間ではあるが、彼の話を聞く。この間の訪問先に関する適切な補足情報や大学人からの政策への視点を聞けて有益な時間だった。おみやげを渡して、隣室のデービッドと共にジェレミイと大学内の新しいカフェでお茶を飲み、その建物に移ってきた生涯学習センターで、友人のリンゼイフレーザーにも会う。その後、時間をつぶしてから、社会政策学科のニック・エリソン教授の部屋に行く。土産を渡して、時間が早いので、6時半に再度会おうということで、辞する。いったん、ホテルに戻り、荷物を置いてから、ニックの部屋に行く。タイ料理か、イタリアンかと聞かれ、Hさんがイタリアンが良いというので、そのようにする。大学から街中に歩いて行き、シビックホールを超えて、美術館横のCASA MIAという(MY HOUSEの意味)レストランで食事。2月の札幌での思い出や、今回の調査の話などを話し、楽しく時間を過ごして、ニックと別れる。ホテルに戻って、ほぼ全日程を終了したことを感じる。ホテルのバーでHさんとビールを飲む。今回の成果は大いにあったことを互いに確認する。また、明朝の比較的早くに出立するHさんを、朝食を一緒にしてから、見送ることにすることも確認した。部屋に戻って最後のメールチェックをしようとするとネットが通じず動かない。どうもホテルの4階の改修工事で作業をした人々の不注意で、無線LANの配線をこわしたようだ。この日午後5時半頃から、テレビも、ネットも使えなくなった。この国の工事をするセキュリテイ管理レベルの低さであろうか?メールチェックができなくなった。弱ったものだ。これでは、寝るしかない。パッキングは明日だ。
ジェレミーとHさん。
3月18日(水)やや小寒い。
朝食時に、Hさんと話し、調査のまとめや今後の研究計画のことを確認する。彼は、午後ヒースロー空港からの比較的早い便なので、先に出発してもらう。
僕は、ヒースローから夜7時のフライトなので、チェックアウトだけは済ませ、荷物を預けてから大学に向かう。ジャスとポールに挨拶を交わし、郵便箱でHIさんがコピーして下さっていたアーサー・スカーギル氏の手記を受け取る。念のために、記しておくとスカーギル氏は、1980年半ばの炭労委員長で炭坑ストライキの指導者であった。ストライキつぶしを徹底的に行ったサッチャー首相(当時)の非道な動きは、ストに参加した人々の生活の経済的基盤を奪い、組合リーダー内に裏切る人を生みだし、ストライキも最終的には敗北を余儀なくされた。スカーギル氏も1万人のピケ隊に襲いかかった8500人の警官によって負傷したが、それ以上に、スト後、彼を誹謗中傷する記事が多く出た。それらに対して、スカーギル氏は、25年の沈黙を続けてきたのだ。しかし、ここにきて時代はもう一度労働運動の原点を求める機運が生じた。スカーギル氏の手記は、極めて具体的に当時のストライキの日々の過程を記し、彼への誹謗がいかに間違いに満ちていたものであったかを明確に実証している。僕はバーンズリーにある彼の家を、90年代初めに、当時のノーザンカレッジのエド・エリス副学長の案内で教えていただいたことがあったことを思い出した。
ホテルに戻り、約束時間に来たタクシーでリーズ駅に向かった。この日は移動日だ。鉄道でロンドン・キングスクロス駅に移動し、地下鉄に乗り継ぎ、ヒースロー空港まで移動していく。National express列車には、無線ランが走っていたので、ネットが使えた。この日は、鉄道移動中にメールを数通送った。時代はこの国でも技術を確実に進歩させていると感じた。車窓を流れる風景は、典型的なのどかなイングランドの春を示していた。
この日は、ともかく、待ち時間を含めて30時間近い時間を起き続けて、日本の自宅に帰り着くのは、年齢的にもやや体力的にきついものがあることを自覚させるものであった。帰宅翌日は、日本教育学会・北海道教育学会共催のシンポジウムがあり、僕は司会役だ。時差ぼけで、頭が回転するかどうかテーヘンだ?!などと自分に向かってつまらないジョークを言って帰路についたのであった。11時間半のフライト後、着いた成田は21度で、暑いくらいであった。しかし、その後向かった札幌は4度で、雪が舞いそうな空模様であった。この気温の落差の激しさも、狭い日本に見えて意外に広い日本の地理的多様性を意識させるものであった。ともあれ、無事にたどり着いたことは、良しとしよう。
写真追加:3月15日の小旅行。 イルクリーに行き、丘に登る。眼下には、典型的なヨークシャーデールの風景が広がっている。気持ちの良い風が抜けていく。
ホテルのラウンジで最後の待ち時間を過ごす。
写真追加 その2
3月17日
生涯学習センターは新しい建物に移動してきたが、経営基盤は不安定なままだ。下の写真は、かつての継続教育学部だが、売却されてしまったのも、今の英国の大学経営の一面を見る思いだ。
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