先週末金曜日は、教授会終了後、部局の新たなスタッフ歓迎の懇親会。帰路の外気が冷たかった。四月も終わりというに、まだ外套は離せないし、暖房も欠かせない。
そして、先週末は、冬が戻ってきたかのような寒さ。道東、オホーツク地域は吹雪模様の荒天。
日曜には札幌にも朝、夕、夜と雪が降った。体調も必ずしも良くなく、週末は、部屋の資料整理とそれを収容する書棚やスペースづくりに終始した。
一般的な情報整理術の類、知的生産技術の方法、収納上手の方法を説く本は、一にも二にもいらなくなったものは、捨てろのオンパレードだ。(そういえば、僕が長く住んだ地域では「イランモノは○○へ」というローカルなCMコピーがあったっけ。 が、それは再販売可能なものに限定されよう。僕の場合はかなり特殊な領域の人々にのみ価値があるものが大半だし、それは整理されて始めて価値に転ずるものだ。)
「捨てる神あれば、拾う神あり」とはいうが、僕の場合、自分自身はそうだったかも知れないが、こと資料や書籍に関しては、そうはうまく、需給がマッチングしないだろうと、勝手に考えて、しまっておくばかりだったかも知れない。
また、他の理由を考えれば、僕の場合、実践的な資料が多いというのは、僕が、比較的多方面、学際的な領域及び実践的運動を扱ってきたという経緯もあろう。ただし、唯一の救済面は、引っ越しが多かったということだろう。僕は、引っ越しの度に捨てるものが多かった。その場合は、適切な判断の場合もあったが、やむなく、あるいは勢いで捨ててしまったものも多い。後悔先に立たずで、後々にあれがあればよかったという悔いの残る資料や本も多い。だが、それでも数年たてば、またもや増える資料の山なのだが・・・
確かに、資料や情報というものは、その都度整理し、活用し、必要な時期を過ぎれば廃棄すれば良いのだろう。理系やある種の分野は、最新事情の研究情報が重要で過去の史資料は用がないという論理が通るようだ。科学史やその領域の史的整理を専門とする場合以外は、大概これでよしだろう。
しかし、僕のような分野は、なかなかそうはうまくいかない。書籍や、関連領域の雑誌、学会や様々な機関の紀要、年報、科研報告書の類だけならまだしも、多様な教育実践資料、調査資料、様々な社会・教育・平和運動的資料なども、同時並行的に、年次的にたまる一方だ。しかし、大学の研究室にも、家のスペースにも制約がある中では、心を鬼にして、どれかを思い切って捨てるしかない。数ヶ月に1回は、そういう旬を過ぎた、比較的短期間の情報価値のものは、捨ててはいる。だがしかし、時間の経緯は、廃棄よりは蓄積が優位になる。
時に、これは、僕から見ても、貴重ではないかと思うものもある。もっとも、僕の場合は、それらを使って文章に表現し、論文化することが重要であって、何かコレクションを誇ることが重要ではないし、その意味で、処分したこともないので、実際のところは分からない。
最近は、古書店も景気が良くないようだ。どうも、全般的にそうだが、とくに古書を買う学生や比較的若い年齢層の購入が減っているようだ。コピー文化のせいもあろう。そうしたこともあって、学術書の価値は、実質目減りして二束三文のようだ。(我ながら古いな、この言い方は。)従って、退職時に、研究室から引き取った個人所有の書籍や資料が家に収まらない場合、研究的にもう使わない場合の処分は、古書店に売るのもためらわれる場合、最近は、関係分野の教え子や後輩に、事前連絡なしに贈るというパターンが多いようだ。もらった方で、嬉しい場合は問題ないが、そうではない場合、これまた処分に困る場合もあるようだ。そうしてみると日本について研究している外国大学の図書館などが一番喜ぶのかも知れない。
ま、僕のような程度の悩みは、ささやかで小さな悩みだ。著名人のこの種のエピソードを読むとはるかに大きなスケールで、廃棄や寄贈がなされているようだ。無論、そのようなレベルのことは、僕の身に起きそうもない。しかし、少量とはいえ、段ボール箱300-400箱程の本や資料で、家人を悩ませないように、老いの老いになる前に、きちんとした手だては取っておくべきであろうと思う。
一方は、勝ち組の大学改革事情『大学職員は変わる』で、著者は上杉道世氏(前東大事務局長)。それはそれで、一つの改革方向をよく示している。
もう一つは、公立大学改革における悪夢を思わせる一つの改革の裏面を良心をもって描いた作品。定年を前に、辞めた吉岡直人氏の『さらば、公立大学法人 横浜市立大学』である。この本は、この国の歪んだ改革事情をよく示している。政治的権力者の横暴と、それに迎合する官僚と卑屈に呼応する一部上層大学人、さらにこれらに加担する御雇い外部コンサルタントや審議会委員。透けて見えてくるのはこんな関係性だ。改革されるべき部局に改革は及ばず、不必要な改革が、一部の部局をターゲットにして、暴力的に行われる。吉岡氏も、本の最終部分で指摘しているように、このY大学の、博士学位授与に伴う不正(医学部局)は、そうした本来改革されるべき部局の暗部を照らし出したようだ。ところが、年が明けて、最近の新聞報道で、僕の属する大学にも同様の事情が、理系の一部部局にあったようだ。無論、こうしたウミは徹底的に洗い出した方が良い。
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