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シャクナゲの花がひっそりと咲いている。
先週後半は、授業や演習その他で暮れた。また、8月に韓国で行う日中韓の国際シンポについての打ち合わせやりとりがあった。
金曜は、締め切り仕事を午前、午後と行いややタフな時間を過ごした。夕刻からは、一つは「北の図書館五人の会」の会合があった。
http://homepage2.nifty.com/kitanotosyokan/ (北の図書館5人の会のHP)
主宰のISさんの呼びかけで、この日は、学校図書館分野の重鎮のWさん、小樽文学館に関わってこられたMさん、それに僕の4人である。久しぶりに直接会って、近況や今後の展望を話し合う場が持たれたのである。僕は、その後の予定もあって、中座したが、それぞれの方の図書館にかける熱い思いがひしひしと伝わり、また人脈の広い方々であることをあらためて思った。
大学に戻り、今度は、博士後期課程の院生の論文検討会。この日は、TさんとI君の博論構成とその内容検討である。二人とも、今年中に、博論提出の気構えである。対象としている直接的な分野は異なり、研究方法や、使う概念、検証手続きも異なるが、それぞれに扱っているテーマは、高等継続教育に結びついていくということになる。一つは、老年看護学分野における実習指導における、プログラム編成とその実証的効果の検証ということになろうし、もう一つは、北海道の私学の一つであるR学園大学の酪農教育での大学拡張実践をめぐる理念とその実際の歴史を二人の鍵的人物の思想と実践に降りたって検証しようとするものである。最初の報告では、看護学における「自立」援助概念と高齢者看護の実際の場面での葛藤、人間の老いをどうとらえるか、看護とは何か、などの基本問題が根本にあり、後半の報告では、酪農を担う地域の農業者主体の支援や育成に関わってのこの間の農業構造の根本的な変容、酪農経営における農業者と国際的環境や企業との関係が前提にある。また、大学本体の教育と大学成人教育分野との連携と葛藤、あるいはその分離の問題など、いくつも深めていく内容があきらかとなった。今後の発展はご両人の努力は無論、それぞれの固有の研究蓄積や学際領域の仕事に学ぶ力にかかっている。終了し、研究室で残務を整理していると、結局帰宅は11時過ぎになった。
翌日土曜日は、日帰りの東京での会合参加であった。いつも思うが、手弁当の往復は、北海道から東京に出かけるのは、時間も経費もややきついなと感じる。この日は、前日遅くまでの日程もあって、時間確認を怠ってしまった。7月3日にでかける四国での教育政策学会の時間と混同して、朝早くに準備し、空港に出向いたのである。あ-あ(嘆息だ)思いこみは良くない。良くあるんだな。これが!
空港でチケットチェックインのときに気づいたが、この日は東京で、午後三時からの会合であった。急ぐ必要はなく11時半のフライトにしたのだった。なぜか9時フライトと思いこんでいたので、8時15分に空港に着いてしまったのだ。しようがない。3時間の待ち時間だ。この時間も使いよう。持ってきた本(天野郁夫、『大学の誕生』(上、下)中公新書)を読み続けて時間を過ごした。
着いた東京は、やはりこの時期、暑くて湿度も高い。マイ不快指数は、この10年の北海道暮らしのせいか、相当に高くなってしまった。会合は、この夏に、長野県下伊那阿智村で開かれる社会教育全国集会の分科会世話人会である。4月に行われた、阿智村での世話人会に日程都合上参加できなかったので、今日は出ようと思ったのである。会合場所は、教科研と社全協(社会教育推進全国協議会)が共同使用している神楽坂近くのビルの二階事務所である。
http://homepage3.nifty.com/kyoukaken/ (教科研のHP)
http://japse.txt-nifty.com/ (社全協のHP)
東西線の神楽坂を降りて、神社近くをすぎて、印刷所が並ぶ地域の手前にビルはある。考えて見ると、この場所には、埼玉時代は良く通ったが、北海道に来てからは初めてであった。もう10年も過ぎたのだ。この日は、案外少人数で、首都圏からの参加者中心で、遠方は松本からと北海道からの僕の二人だけだった。僕は、「大学と地域連携」という分科会の代表世話人である。各分科会の進捗状況をお聞きして、内容を伺うことで、現状を体と頭で実感し、自分のなかのインセンテイブを高めるには良かったのかも知れない。なお、次年度50回大会の企画内容討議もあったので、その原案については僕なりの意見は述べた。多少クリテイカルな物言いだったかも知れない。50周年をどう振り返り、いかに積極的に未来を展望するのか。それにふさわしい内容を願ってのことである。終了後、社全協常任委員は夕刻から会議があるようで、その前の夕食に少しおつきあいした。Nさん、Uさん、Oさんと短い話をした。皆さん、それぞれとは、長年のおつきあいだ。僕はその後は帰宅の途についた。空港では、一本便を早めてもらい、助かった。
札幌に戻る車窓の夜景は、疲労のせいもあるが、いつもやや心寂しく写る。
地下鉄に乗り継ぎ、最寄り駅を降りると夜風が心地よい。自宅近くのマンションの鉢植えの花々の香りが夜の闇に広がっている。この地の夏を感じた。
投稿情報: 12:55 カテゴリー: 四季の暮らし-彩り、点景, 在野の知と実践の日誌, 学会・研究会 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
夏の陽ざしになってきて、気分も少々軽くなってきた。表紙デザインを、選択肢の中からですが、多少今の気分に合うものに変えてみた。どうぞ、よろしく。
ニセアカシア(?)の花弁か?この季節は降り積もるくらいだ
本州は梅雨の合間にもう真夏日のようだ。30度を超える日々が始まっている。この北の地も近年は、梅雨とまでは行かないが雨模様の日が多い。先週は、やや涼しい日々が続いたが、週明けの火曜になって、日中25度になり、家にいるときは、Tシャツ、短パンでも過ごせるようになってきた。
今週月曜は、午前は、月末から来月にかけてのスケジュール管理とそれにともなう出張を確認し、航空券やホテルの予約など、いくつもの雑務をこなした。午後は、二時間半ほどかけて「こどけん」(子どもの権利条例市民会議)の事務局・共同代表の面々で、S市役所の各部局(教育委員会、市長室でのU市長との面談、子ども未来局、救済機関アシストセンター事務局)を訪問した。昨秋可決され、この四月から施行されてきたS市子どもの権利条例の運用の進展具合を伺うとともに、同条例がより実効的な内容になって進められていくように、こどけんからの要望や意見を述べてきた次第である。応答いただいた各部局の方々、U市長には多忙な中時間をとっていただき、また有益な施策の展開情報も多く、多謝を申し上げたい。
これは、こどけんの四月総会以降の具体的なアクションの一つである。また、HPに加えて正式ブログも発足することになって、現在試行実験中である。http://d.hatena.ne.jp/kodokenblog/ こどけんブログのurl
上記の訪問記録なども載せられることになろう。また、このブログもリンクされることになっている。
夕刻、大学に戻ってからは、「教育と法」研究会があり、法学研究科の助教のSさんから憲法学的視点からの子どもの自己決定権と教育法の関係について、詳細な報告を受けた。憲法学の諸学説の動向とともに、憲法学と個別法学との認識の方法やとらえ方の温度差なども感得された。例えば、子どもや障害者などを権利主体として考えた場合、その固有の特性(成長発達可能態、未成熟性)や自己決定を行使する上での多様な障壁と困難性を、制限的な存在として見るのかどうか。すなわち、特定の憲法理論が想定する人間像としての自律的な個人の自己決定論から見ると、子どもや、障害者は特例であったり、「半人前」的把握で良いのかなど、あるいは強い個人の意見が通っていくありかたに与しないかなど、権利主体の総合的把握、あるいは、権利の相互関係における対話や民主主義を人権理論の中に、どう構造的に組み込んで考えるのかなど、多くの議論が闊達になされた。こういう討議は、共同研究会ならではの刺激であろう。終了後、いくつかの雑務をすませ、帰宅すると10時を越えていた。さすがにこの日は疲れた。
今週は、今日もそうだったが通常の講義がいつも通りあり、また演習や研究指導も通常通りだ。それに委員会会議が2つ、研究会が2つ、さらに今も進めている月末締め切りの原稿が目白押しだ。6月もあとわずかで終わる。あせっても致し方ないが、時間は有限だ。
投稿情報: 02:49 カテゴリー: 四季の暮らし-彩り、点景, 在野の知と実践の日誌, 学会・研究会 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
昨日、日曜日、朝からずっと机の前で作業をしていたせいか、午後も一定時間を過ぎてから、外に出て社会を呼吸したくなった。学会などが毎週のようにあって、家にいることが少なかった日曜日。このまま、我慢して、机に向かうか。プールに行って体を動かすか。しばらく映画館にも足を運んでいないので、映画を観るか。三択を自分に問うて見て、最後の選択がこの日の僕の好みとなった。新聞の映画館情報欄にさっと目を通し、時間を見て、街の中心を少し外れたところにある映画館には、家からは、地下鉄よりも、今から自転車で行けば間に合うと判断した。こうなると時間との勝負。急いで、着替える。車庫奥にある自転車は、タイヤが空気不足だ。これまた、手早く、タイヤにエアを入れる。さあ、めざす館へだ。重めの体を乗せて、我がクロスバイクを飛ばしてみた。16-7分走って、上映開始時間にギリギリセーフ。今日は、映画を二本はしごをするという欲張り計画。最初の方は、もう予告編が始まっている。地方都市の小劇場系映画館の良いところは、観客が割と少なく座れることだ。
最初の一本は、監督・原作・脚本・編集を一手に担った是枝裕和作品「歩いても 歩いても」だ。昨年6月に公開されて、見逃していた映画だ。
http://www.aruitemo.com/top.html
僕の下手な映画解説などしない方がよいが、ストーリーの展開は、冒頭の次の場面から始まる。
夏の終わり、湘南地方にあるらしい実家へ15年前に亡くなった兄の命日へ、次男が妻と息子を伴って訪ねて行く。・・・
そこから展開される、淡々とした中に、長男を喪った老親と、次男、長女の家族の確執や愛情と憎しみ、それに思いやり。重さも軽さもある会話と家族の情景。是枝監督の「誰も知らない」に見られたリアルで細やかな視線は、この作品にも貫かれている。多分懐かしさをこの作品に感じるのは、小津安二郎、成瀬巳善男監督たちの作品が持っていた日本映画の家族劇の良質のテーストをこの作品も含んでいるからなのだろう。
感想を少しだけ書いておこう。映画のちらしには、「家族のことを想う時、何度でも観たくなる映画です」とある。鑑賞後、入手した映画パンフレットの川上弘美の解説にも、「いい映画はたくさんある。でも、この映画のように、その中にいる人たちのことを、今もずっと考えつづけている映画を、わたしは見たことがない」とある。素直に、そうだなと思う。阿部寛、夏川結衣、YOU、高橋和也、田中祥平、樹木希林、原田芳雄が主な出演者だ。
僕のもう若くはない年齢が、もはやそのような視線にさせるのか、どちらかといえば主人公の阿部、夏川が演じる次男夫妻の視点よりも、樹木希林、原田芳雄が演じる老親の方に情感が寄せられる。樹木と原田のセリフ回しのさりげない毒にゾクッとするのだ。そして、次男夫妻の妻の連れ子の高橋祥平のまなざしは、そうした大人たちを相対化して見つめていて、どこか監督がもつ目線のようでもある。家族は互いに、愛憎の中で、ぶつかり合いながらも、子や孫のどこかで受け継がれていく。
余韻を含んで、銀幕が降りて、館外に出る。同じフロアの今度は別のシアターで二本目だ。20分ほど待って、今度は別のテーストの作品。しかし、映画の焦点は、現代の家族と子どもの貧困、それと社会のセーフテイネットの問題だ。映画のタイトルは、「ベルサイユの子」(ピエ-ル・ショレール監督)。
http://www.zaziefilms.com/versailles/#alive
重たいテーマだ。映画案内に書かれたストーリーを転記するとこうだ。
<・・パリの街をさまよった末、ベルサイユ宮殿近くの森にたどり着いたホームレスの母子。二人は社会からはみ出て生きるダミアン(ギョーム・ドパルデュー)と出会うが、母親は5歳のエンゾ(マックス・ベセット・ドゥ・マルグレーヴ)を置いて姿を消す。予期せぬ事態に困惑するダミアンだったが、生活を共にするうちに親子のような情愛が芽生えていく。・・>
フランスの社会的排除の現実が否応なく画面に出てくる。社会から森の中に追い出されて住む人々は、ダミアン(ギョーム・ドパルデュー)のように、家族の絆から切り離されていたり、貧困が故であったり、恐らくはロマ(ジプシー)の人々であったりだ。それを忌み嫌う人々の存在もある。他方、フランスの法は、社会的排除を禁止し、子を持つ親の生活保護を受ける権利や最低限の社会保障システムを持ち、エンゾ(マックス・ベセット・ドゥ・マルグレーヴ)の母ニーナ(ジュデイット・シュムラ)のようなうち捨てられ、クズ扱いされた人の社会的自立を援助するNGO組織も存在する。しかし、そこからこぼれてしまう人たちも多くいる。最後は、人のもつ人間的愛の感情だ。エンゾ(マックス・ベセット・ドゥ・マルグレーヴ)は、親の養育力の限界と社会保障システムの機能不全のその隙間に落ちたが、ベルサイユの森に入り込んだ母が、そこに暮らすダミアン(ギョーム・ドパルデュー)に本能的にこの人ならと託した結果、かろうじて生き残る道につながっていった。しかし、エンゾが大きくなっていき学齢期になることで、ダミアンは森の生活をやめて、折り合いの悪い父の家に行き、家賃を払いながら、エンゾを学校に行かせ育てる道を選ぶ。法的に、養育親権を得て、一応エンゾの見通しがついた時点で、ダミアンは、再び、父の家を出る。エンゾは、ここで、ダミアンにも置いて行かれ、ダミアンと折り合いの悪かった父ジャン・ジャック(パトリイク・デカン)とその若い妻の元で育てられる。映画のまなざしは、エンゾは、このまま、成人していけば、恐らくは、人間不信と信頼の間をずっと悩み続ける人生を送ることになったであろうと思わせる。(そういうケースが多いのかも知れない)しかし、この映画の最後の救いは、ダミアンが去ってから7年後に、立ち直った母が引き取りに現れたことだ。・・その先はどうなっていくのだろう?というところで、映画は終わる。
是枝監督の「誰も知らない」の世界と、この「ベルサイユの子」の世界は、海を隔て、地理的にも文化的にも遠い。しかし、グローバル化した現代においては、事柄の本質は、同じである。厳しい条件に置かれた子の生きる権利は、うち捨てられてはならない。なんとしても、社会で守り、そして何よりも親が守れるように、その環境を整える必要があるのだと。
主演したギヨーム・ドパルデュー(Guillaume Depardieu)は、名優ジェラール・パルデユーの息子であり、(どこか似ていると思った)昨年この映画公開後、ルーマニアでの別の映画撮影中の急性肺炎で、パリに移送されるも、37歳で夭折したのだという。痛ましくも惜しい。
内容の濃い作品を2つも観て、やや心も濃密な印象に満たされた。帰りの自転車で、ネオンや居酒屋の喧噪に包まれた街を抜けて行くと、ここ」には北の大地の別の現実があるのだと思った。しかしどこかで2つの映画とつながっていく現実でもあるのだ。そういうことの簡明な事実に気づかされるのはいつも少ししてからだ。「歩いても 歩いても」(いしだあゆみの「ブルーライト横浜」のさびの一フレーズだ)の映画ではないが、「人生は、いつでもちょっとだけ間に合わない」ようにできているのかも知れない。ある事柄をそれとしてしかと気づいていくには、多少のタイムラグがあるのだ。僕のような凡人は、いつもその気づきの遅さ(悔しいね!)を抱えて生きていくしかないのだろう。
投稿情報: 08:02 カテゴリー: 四季の暮らし-彩り、点景, 在野の知と実践の日誌, 映画、コンサート | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
先週はあっという間に過ぎた。週明けの月曜日は、夕刻から、「こどけん」(子どもの権利条例市民会議)例会であった。先月の総会の反省と今後の計画の話し合いが主な内容であった。途中にこの日臨時に参加いただいた夕張郡N町のSさんからお話しを聞いた。
この日の記録をされたMさんのメモでは、以下のようであった。
Sさんのお話し: 07.2月とわの森三愛高校で、体調不良で
早退した息子さんが急死した事は、学校
が安全配慮の義務を怠ったからでは…。
・こどけんとして何が出来るか
現在応援している滝川の事件同様、裁判
傍聴など、その時々で出来ることをする。
次回7月13日(月)公判日
※Sさんはここで退室
※関連ブログがありました
http://towanomori-jiko.seesaa.net/
先週、この会合の後に、Sさんから小生宛に、裁判に関連する資料を二度郵送いただいた。それらを注意深く読むと、この問題の背後には、学校が最低限具備すべき、子どもの生命を守り、教育福祉的条件整備義務、及び教職員と学校設置者の責務という課題が浮かび上がる。僕は、このことに対して、僕なりの考えをまとめた私信をSさんにお送りした。
火曜日は、高等教育論という通常の学部講義を終えるとすぐに外に出かける用意をした。この日は、短期留学生相手の講義の僕の担当の最終日であった。留学生センターが各部局に依頼して行うHUSTEPというプログラムの一部を担ったわけだ。僕の部局では、今年はEducation and Society in Postwar Japan というテーマで3人がオムニバスで共通1回、各自4回の英語での講義を担当するというもので、この日の予定は、通常講義とは異なるフィールドワーク的企画で、市内にある大学共同サテライトキャンパスに赴き、SC大学の現状、課題、社会貢献や教育への大学職員の果たす役割について、Uさんからお話しを伺った。この授業の受講生は、カナダ、米国、フランス、フィンランド、中国、台湾、韓国、それに少数の日本人学生という構成である。SC大学の職員で、大学院博士後期課程の院生(僕の研究グループに所属)でもあるUさんには多忙な中、ご協力いただいた。多謝である。
フィールド授業終了後、大学に戻る途中、内科クリニックに寄った。今年始めに行った人間ドックの結果を主治医にチェックしてもらい、いつもの診断と薬を調合してもらう。僕の身体は、加齢とハードワーク故に、いたしかたないのか、故障箇所が否応なく増えている。節制や休養が必要なのだろう。問題は、それをどう工面するかだ。夕刻帰宅後は、義父と細君と一緒に近くの店へ夕食に出かけた。これは、楽しいひとときであった。
水曜は、午前の通常授業と午後から夕刻にかけては、たまっていた雑務的仕事、それに期限のせまった国の外郭機関からの依頼仕事を行った。これで多分、締め切り日には間に合うであろう。
木曜日は、午前は院生の研究指導授業、午後は学部ゼミ、さらに夕刻からは、HG大学院での授業。この日は毎週、家人が公的な仕事関係の電話相談で、留守になる。家に戻り、遅い夕食をとり、翌日の犬の散歩と食事づくりをするのが定期的な日課だ。夜は、すこし時間がとれてたまった仕事にとりかかる。
金曜は、午前中に家事雑務を行い、午後からは部局の委員会。その後に、国の外郭機関関連の仕事を行い、電子入力送信して終了。どっと疲れがでる。その後、部局委員会に関連した構成員の方々への依頼文書を送信する。この日は、帰宅時は、そんなに遅くないはずなのに、同じフロアの部屋の電気は僕の部屋だけだった。
土曜日は、午前に、若い同僚から金曜に送信した委員会の内容への注文というかクレームが来て、その内容精査に時間を使い、回答を行う。手続き上の説明責任の問題だ。多分、同様の説明をまたしなければならないだろうと思う。
この日午後からは、「こどけん」の関係者のIMさんの結婚祝賀会。あわてて準備をして、会場のホテルに急ぐ。お相手の新郎は、若手弁護士のTKさんだ。こどけんからの参加メンバーや知り合いの弁護士さんも多い。華やかな中に、心温まる場面も多い。新郎新婦の関係者の祝辞やパフォーマンスにも心が洗われるようなものが多かった。新婦がピアノを弾き御父上が歌われる場面も良かった。新郎が若き日の友人と一緒にギターを弾いてうたった曲(財津和夫:僕がつくった愛のうた)のフレーズに「・・愛とはいつでも不思議なものさ、心の扉を開いてしまう・・」は、偽らぬ新郎TKさんの心情を語ったものだろう。
「ふたりの愛があるかぎり、地球は回りつづける どうしてって聞かないで、 こんなに君を愛しているのに・・・」参加者の多くは、かつての自分を思い出していたのかも知れない。
僕は、北海道的スタイルのようだが、会のお開きのための乾杯の挨拶を、頼まれていた。ほんの短いスピーチの中に、僕は、新婦・新郎の純粋さやその愛がふたりの心の扉を開いただけでなく、愛で世界を包むものであることについて、また僕の娘の結婚式が一昨年あり、そのことを思い出して、二人のそれぞれのご両親の感慨深さを祝し、また今の時代における弁護士の果たす役割の大きさについて期待(真の公益と民の益を守る人権弁護士として)を述べさせていただいた。
写真も多く撮ったが、プライバシ-もあり、ここでは載せないでおこう。この日の結婚祝賀会のような情景に出会うと、世の中まだ捨てたものではないと思う。
投稿情報: 12:31 カテゴリー: 友人の記憶、友愛、つながり, 四季の暮らし-彩り、点景, 在野の知と実践の日誌, 学会・研究会 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
昨日、今日と社会教育学会東北・北海道6月集会があった。
会場は、北翔大学北方圏学術情報センターポルトという、札幌の都心地区の西側、円山地区に近い場所だ。昨日は「市民参画・協働と社会教育-その2-」と題したシンポジウムがあった。終了後の夕刻は懇親会で、ゲイラン ロロンエイトというシンガポール(中華)料理店で行われた。二次会は近くの居酒屋であった。
昨日午後のシンポは、3人の報告がなされた。それぞれに傾聴すべき教訓や事実を含んでいたし、面白かった。僕にとっては、議論の一つの焦点は、「市民参画・協働」のホンモノとニセモノを見分ける基軸をどこに置くかにあったように思われた。しかも、「市民参画・協働」を社会教育という視点と実践を潜らせて考えるという立脚点からだ。
シンポに刺激されながら、僕の脳裏に浮かんできたのは、次のような事柄であった。それは、直接には報告者の内容に関係している訳ではない。
この間、新自由主義的地方行政改革が選択と集中の財政削減を伴い、実行されてきたことはよく知られている。とりわけ、小泉政権時代の三位一体型地方行財政改革は、地方交付税削減によって国の財政的責任を縮減させ、自治体の財政責任を強調するものであった。この結果、自治体施策の舵が大きく転換され、直接的な自治体の公的責任を回避する傾向が顕著になってきた。そこで登場してきたのが、従来の行政は「悪」であり、市民が担い手となって、進めることこそが肝心であるといった、聞こえの良いささやきをもつ論である。それが、「市民参画・協働」型行政とされるものであった。
しかしだ。よく考えてみよう。自らのこれまでの行政責任はいかなるものであったか、自治体の公共性確保はいかになされるべきかの総括論議を抜きにして、行政側が従来の行政は悪であった、間違いであったというのはいかがなものだろう。
「市民参画・協働」型行政として、取り入れられてきたのが、まずは、市場型経営として、指定管理者制度の導入、非正規労働導入の拡大による経費削減・効率的行政の推進である。さらに、次には、第三セクター的なNPOやボランテイアを活用して、市民参画・協働を旗印にして、多くの事業がなされてきた。さらには、地域住民組織などを活用して、地域的なまちづくり活動の様々なシカケが用意されてきた。そして、この三種類の統治様式をうまくつかいこなすのが、優秀な行政経営ということになる。これらの結果のメリットは、旧い官治型行政の不人気と撤退であり、多くのアイデアの出現である。しかし、他方では非正規労働現場や指定管理者制度の下での官製ワーキングプアの増大、住民へのきめの細かな行政サービスの低下、厳しい不利益な立場にある人々への公的責任の放棄もしくは排除、批判の自由をもった市民の参加と自治の排除が顕在化してきたことである。
すこしきつい言い方をすれば、しかけ上手な首長や、有能な官吏がデザインした「見えないシナリオ」があり、「市民」がそのしかけの上で踊らされたり、利用されたり、特定の市民的団体やに権限の一部を委譲されたりする事態が、全国的に進展してきたといえなくもない。その意味では、もはや、「市民参画・協働」は、行政の常套的な施策推進の手段ツールとして扱われ、その用語やイメージの積極性は失われ、手垢にまみれた言葉に転じていると言っても過言ではない。現代の有能な官吏とは、住民を主体にして、国や自治体がデザインした施策を、それとは気づかさせずに、最も効果的に経費を削減させ、住民が能動的・自主的・主体的に実際活動するように、多様なシカケを考案する人のことを指すようだ。
市民的公共性がもしもこのような仕組みの中で主張されるのであれば、住民はまずは、その幻想から自らを解き放つためにも、現実のリアルな生活実感からその真偽を見抜く、智恵と力が求められる。幾度も痛い目に遭ってきた住民のしたたかな目線から、そうは簡単にだまされたり、踊らされないための学びが必要となる。それは、個人の実感から出発しながらも単純な個人的な学習ではなく、共同化の契機を必要とする。さらには公共性とは何か、住民自らが担う課題は何かを問うていくことに通じていく学びである。
そのことがあって初めて、真の意味での住民の主体的な参加による活動が組織され得るのではないだろうか。住民個々人が、互いの信頼関係のもとでの人間的な人権意識をもって、要求する力=自分の「声」と「言葉」をもつこと。そのことこそが、公費(税)の適切な還元と執行=行政の公共的責任を胸を張って要求できる根拠ではないだろうか。それは、何も行政と住民との二項対立の議論ではない。むしろ、行政の執行を担う人々(公務労働の総体と個々人の仕事)とのなれあいの依存関係でもなく、またいたずらな対立でもなく、真の意味での批判と敬意をもっての協力・協働が成り立つための道筋であろうと思う。
このような正論を言えば、しかしすぐには共感をもたれるわけではなかった。主流に乗る人々からは、何か、守旧的なことを言っている、物わかりの悪い、頭の固い、原理主義者のような扱いを受けるような空気があったのだ。いわば、KYの分からない化石人扱いだったのだ。
しかしだ、このような思いは、僕だけではなかったようだ。政治学、社会政策研究でも同様な述懐があるようだ。「ここ五年ぐらいの間は、北の大地で新自由主義が席巻する世間の流れとはおよそずれたことばかり主張していて、南極に置いていかれて遠吠えする『南極物語』のタロ・ジロみたいだとか言われていました(笑)」「そうしたら救援の船がやってきたというか、だいぶ世の中の議論の調子が変わってきました」(『脱「貧困」への政治』岩波ブックレット、2009での宮本太郎氏の発言)
この1-2年の経済危機と、貧困化の可視的状況、しかもそれが天災などではなく、明らかに人災に属する事柄であることが分かってくると、「痛みを分かち合う」「聖域なき構造改革」などの政治の本質がよく見えてくるようになったのだ。「痛み」は一方的に、民衆たる我々に押しつけられてきたのである。そのことが人々に実感されてくると、たしかに、時代は「救援の船」を出してきているようだ。主流の議論を展開してきた人々の威光と「説得力」はにわかに失われ、ここに来て、沈黙をし始めるか、したたかに開き直るか、自己懺悔をする人々が出てきた。
しかし、分野によっては、その流れにはタイムラグがある。これまたきつい言い方をすれば、僕の関係する分野(社会教育に限らず、高等教育や教育法など)の一部には、政策にすり寄り、あるいは政策を先取りすることで、「物わかりの良さ」を誇り、そうすることによって研究費を獲得する向きや、「今さら流れは変えられない」のだから、それを前提に、組み替えを行うことが大事と言った議論がこの間目立っていた。こういう「物わかりの良さ」は、実は道を誤るものであり、困ったものだと僕は思うのだが、辛口すぎるのだろうか?
閑話休題
今日は、義父が来札した。夕刻前に、大通りの「よさこいソーラン」のパフォーマンスをしている会場に足を運んだ。僕は、「よさこいソーラン」そのものには、いささか違和感がないではないが、楽しんでいる人々がいて、盛り上がっているのだから、無粋に冷水を浴びせるつもりはない。経済効果も大変なものだ。グループによって、それぞれの個性や、技量差が出ていて、やっている人々の情熱は大変なものだ。すこし、踊りの群舞を眺めてから、僕らは、すすき野にある、地酒の直営店に出かけ、地の山海の料理を楽しんだ。
p.s.今年の最優秀チーム=よさこいソーラン大賞は、平岸天神チームだと、帰宅後ニュースが報じていた。H大学の「縁」は、途中、赤フン姿になるなどのサプライズもあったのか、S市長賞をとっていたようだ。
投稿情報: 03:31 カテゴリー: 四季の暮らし-彩り、点景, 在野の知と実践の日誌, 学会・研究会, 家族の記憶 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
今日は、週末前金曜日。会議その他で午後はつぶれる。明日は、僕の研究分野の「東北・北海道6月集会」がある。今回は、札幌での開催だ。これで3週連続の学会での週末だ。
夜、寝る前に、NHK芸術劇場の舞台中継録画「焼肉ドラゴン」を観る。
【作】鄭義信【演出】鄭義信,梁正雄【出演】申哲振,高秀喜,千葉哲也,粟田麗,占部房子,朱仁英,若松力,朴帥泳,金文植,笑福亭銀瓶,水野あや,朱源実,朴勝哲,山田貴之他。東京 新国立劇場・小劇場での録画である。
「焼肉ドラゴン」は、新国立劇場小劇場で昨年四月に公演され、韓国でも五月にソウル芸術の殿堂で公演されたようだ。在日朝鮮・韓国人、日本人、韓国人の役者が混然一体となって出演し、1969-70年前後の、大阪万博の華やかな流れの裏側にあった関西の小都市の在日一家を舞台にして、在日の人々の生き方とそこから浮かび上がってくる歴史を、笑いと涙と怒りと悲しみをもってダイナミックに描いた作品だ。詳しい筋や、内容は、下記を参照されたい。
http://www.nntt.jac.go.jp/release/updata/20000283.html
「焼肉ドラゴン」は、昨年の演劇関係の賞を総なめにしたと聞く。朝日舞台芸術賞グランプリ、読売演劇大賞、紀伊国屋演劇賞個人賞などだ。鄭義信の演出は、関西弁とハングルが一緒になって醸し出す、空気が何ともいえず良い。ドタバタと笑いの後にしみじみとした哀感が心に残る。日本が犯した歴史的犯罪性や差別があぶり出されるとともに、在日の人々の暮らしが胸を打つ。芝居の最後の幕場で、国有地を追い出される家族の離散とつながりの希望の情景は余韻が残る。作品は、様々な事実を下敷きにしてのフィクションだが、それだけに、リアリテイもある。1970年前後から随分と時間が過ぎた。舞台のあの「家族」は、日本と、韓国と、「北」に別れて、その後の40年をどう生きたことになるのかという思いがしきりとした。
そういう点では、僕の中学時代の親しい友人の在日のO君の実家家族がまさしくそうだった。僕は幾度も彼のくず鉄回収業を生業としている実家でご飯を一緒にさせてもらう機会があった。大家族の和やかさがあった。また、在日の人々の8.15解放記念日の大運動会や演劇も一緒に連れて行ってもらった。彼のお姉さんの北への帰還、兄弟の生き方も聞いた。そして彼の結婚式にも出たし、その後の彼の人生もそばから眺めてきた。在日の人々は、日本の差別的な構造の中で、多くは韓国の地域を実際の故郷としながら、当時の北への帰還運動などもあって、姉妹兄弟・親族が「二つの母国」に引き裂かれ別れて住み、それぞれの政治に、そして日本社会や日本の政治に振り回されながら、生きてきた歴史がある。
今は、O君とは、毎年年賀状のやりとりをしているだけで長らく会っていない。家人は、ちゃんと会って話してきたらと言う。その通りだなと思う。演劇を観ながらそういう思いが広がった。
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先週末は、社会教育学会6月集会があり、2週連続の週末出張であった。横浜国立大学が会場校であった。横浜国立大学は、今回初めて伺ったが、緑の多いキャンパスであったが、いささか交通の便は良くない位置にあった。その週末は横浜市内のホテルは満杯で、結局東京・品川での宿になった。首都圏の交通事情を考えると文句をいえる距離ではないが、近いとはいえ、夜遅く戻り朝は比較的早くに出る日程はややつらいものがあった。横浜市内のホテル満杯の理由は、多分、横浜港開港150年祭とか、人気グループのライブ公演や他の大きな学会があったことの人出の影響らしいが、良くは分からない。
今回の6月集会にあわせて、編集に関係している本の編集会議ももたれた。また長野県阿智村で行っている現代生涯学習研究セミナーの次年度に向けた運営委員会も初日の夜に行った。番外では、夜には、息子と会う時間もつくり、食事を共にするなど結構忙しい日程でもあった。
6月集会プログラムの中では、学校・家庭・地域連携に関する全体研究のシンポジウムや、メンバーとして関係しているプロジェクト研究としての教育法体系の再編と社会教育・生涯学習の変容に関するシンポジウム検討があった。最終日午後には、そのことに関わってのこれまたこの秋の大会と、年報の構成案などについても検討をした。
2つのシンポジウムでは、教育基本法13条の解釈や社会教育法改正の意味、新たな学校支援地域本部の位置づけなどを巡って、僕もいささか考えるところを質問し、意見も述べた。学会なので闊達な議論は不可欠と思うので発言もするのだが、他方では、もう少し寡黙に聞くだけの方が良いのかなと、いつも悩んでしまうのも、僕の人間のできていない至らなさなのだろう。
全日程を終えて、横浜駅で、Nさん、Iさん、O先生とでちょっと行こうということになって入った店は、おいしかったがやや割高かな?というお店だった。
結局、列車と飛行機、その前後の待ち合わせ時間、さらに列車、地下鉄と乗り継いで、札幌の家にたどり着いたのは結構遅くなって午後11時近かった。さすがにくたびれ果てた。2週連続の首都圏出張も、月曜日朝からの講義もあり、さらに続けて1週間しっかりと講義、演習とそれの準備、委員会等の会議、自主的研究会、論文作成など、びっしり日程が詰まっていることもあり、疲れがたまる一方だ。どこかで余裕をもつ工夫が必要なのだろうな。
月曜夜は、一日の多くの作業を終えてから、夕刻に学生、院生とのコンパであった。わいわい議論したのは、まあ息抜きには丁度良いのかも知れない。
投稿情報: 01:50 カテゴリー: 在野の知と実践の日誌, 学会・研究会 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
4月に出た、体罰事件に関する最高裁判決について、先週、新聞取材を受けた。記事は、6月1日に掲載された。(この文の末尾参照)
今回の取材側の意図は、「教育的指導としての体罰の是非」「体罰をめぐる流れ」について、国の教育再生会議の議論をきっかけに、体罰容認の流れが強まる状況があることを踏まえ、体罰について、否定する見解と「体罰やむなし」という考えの双方を対論させて、読者の理解を深めてもらうというごくまっとうなものだった。
体罰否定見解の方は僕だったが、「体罰やむなし」見解の相手は、当初未定であった。その後、義家弘介氏に決まったと連絡を受けた。
義家氏について、僕は直接の面識はない、ただし著書を読んだことでのいくらかの感想、彼を教育した恩師や北星余市高校の関係者からの直接的、間接的な話は多少は聞いている。今回の彼の位置づけは、多分以下の点であろう。
①「ヤンキー先生」として、自らの体験をもとに、「熱血教師」として北星余市高校の再生に関わったこと、余市高校を退職後、横浜市教育委員、自民党参議院議員になるなど知名度が高いこと、
②安倍内閣時の教育再生会議のメンバー(内閣官房教育再生会議担当室室長)であったこと、その発言を通じ、「体罰」に関する線引き(容認、非容認)を含んで強い教育的指導を盛り込んだ文科省の07年2月5日の通達作成に影響力を持っていたこと、
③教育現場や親の中、あるいは世論において、義家氏の見解に近い考えをもつ人が少なか
らず存在すること、彼の現場的感覚には、それなりの説得力があるように受け止められていることなどであろう。
今回の判決に彼の日頃の見解がどのように影響したかは分からない、おそらく直接にはないであろう。ただし、07年の文科省の通達が間接的に裁判に影響を与えていることは判決文からも明らかである。
(*なお、07年2月5日の文科省通知「問題行動を起こす児童生徒に対する指導について」は下記を参照されたい。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/07020609.htm
その要点は、以下である。体罰の範囲等についての1948年の法務庁通達を見直し、学校教育法で禁じられている体罰に関する考え方をまとめ、都道府県・政令市教育長らに通知した。通知では「体罰に当たるか否かは客観的に判断する」ことを前提に、「一定の限度内で懲戒のための有形力(目に見える物理的な力)の行使が許容される」という裁判例を入れたこと。文科省は「有形力の行使すべてが体罰ではなく、事案ごとに客観的・総合的に判断されるということを表したかった」と説明し、拡大解釈される恐れについては「身体に対する侵害や肉体的苦痛を与えるような懲戒は体罰に該当すると明記している」としたこと。)
そこで、僕が記者に、インタビューで話したことは以下のような要点であった。ただし、記事にそのすべてが載ったわけではない。
① 最高裁判決には、原審(地裁、高裁)判決を覆すような新たな事実関係での証拠検証はないこと。もっぱら法文論理での判断によって結論を導いていること。原審を覆すような、反証としての事実関係の追加が見られないことから、その論理性の是非が問われる。しかし、そこには、原審判決を覆すような格段の説得力を読み取ることができないこと。その意味で、教育政策追認と見なされる面をもつ判決である。また、裁判官に、一人の少数意見もないことは、奇異である。
② 事実関係認識と判断について
a、子どもが受けた精神的被害、恐怖心、ダメージについて、原審の判断とは異なり、最高裁判決は、そのことには、重きを置かず、病院で治療を受けるなどしたが回復したから問題がないと認識していることが、まず問題である。一番問題となるのはこの点であるが、何故そのことには触れず、次のような事実関係認識を示したのか。<被上告人は,同日午後10時ころ,自宅で大声で泣き始め,母親に対し,「眼鏡の先生から暴力をされた。」と訴えた。その後,被上告人には,夜中に泣き叫び,食欲が低下するなどの症状が現れ,通学にも支障を生ずるようになり,病院に通院して治療を受けるなどしたが,これらの症状はその後徐々に回復し,被上告人は,元気に学校生活を送り,家でも問題なく過ごすようになった。>
b、また、子どもの母親について、<その間,被上告人の母親は,長期にわたって,本件小学校の関係者等に対し,Aの本件行為について極めて激しい抗議行動を続けた>と事実関係認識において母親について「モンスターペアレンツ」的認識を示していること。
c、かつ、もっぱら、A(教師)の「有形力行使」の範囲を問題として、Aの行為については、「やや穏当を欠く」としても「教員が児童に対して行うことが許される教育的指導の範囲を逸脱するものではな」く、学校教育法11条の体罰にあたらず、許容の範囲としたこと。
③この判決は、百歩譲って考えれば、「体罰」そのものを容認したわけではないこと。「有形力行使」の判断の基準についての個別的事例の判断を示したということであって、一般的に「体罰」を認めた訳ではないことは留意されるべきである。しかし、「有形力行使」に関する、細かな判断基準の是非に論理を移行させれば、やがて、社会的風潮や「空気」次第では、その歯止めがなくなる道を開いたことは、危惧すべき重大な判示というべきである。
④裁判所の判事(裁判官)も人の子であり、社会や世論の影響を受ける。司法の判断には、法的ロジック構築の前提として、対象とすべき事柄に関しての、洞察力あるいは生きた事実に関する理解力が問題となる。しかしながら、この間の司法の傾向としては、地裁、高裁、最高裁と進むにつれて、現実の詳細についての生きた知見が問われるよりは、もっぱら論理構築(とくに国家統治の観点から)と法技術上のレトリックに重きが置かれ、現実の動態についての学習や聴く力をもつことについて消極的であるように見える。教育事象は、個人的、即自的判断が先行しやすく、裁判官もその限界から逃れられない。従って、大事なことは、体罰に関して、教育現場でどのような解決に向けての努力がなされているか、あるいは教師がどのようなことで困っているか、子どもたちの身体的精神的損傷についてどのような研究や判断が存在するかなどについて、虚心に耳を傾けることが不可欠である。しかし、今回の判決には、文科省などの教育的指導に関する通達などの理解とそれからの影響があっても、上記のような事柄についての深い知見が伺えない。もしも、何らかの新たな見解があるとすれば、書くべきであり、説明不足である。その意味で、残念である。
⑤世界的な体罰に関する、法的あるいは司法的状況は、その否定に向かっている。欧州では、厳格にそのことが伺える。体罰に関しては例外なく禁止の方向にある。とくにドイツではその変化が大きい。比較的許容的と見られてきた英米でも、この傾向は変わらない。日本の現在の動きは、こうした世界的な子どもの、人権認識に逆行するものである。例えば、毎日新聞5月23日の記事では、結城忠上越大教授の次の見解があるがその通りと思う。
<海外の体罰問題に詳しい元国立教育政策研究所総括研究官の結城忠・上越教育大教授(学校法制)によると、先進国では、学校での体罰を無条件で禁止する方向にある。 ヨーロッパ大陸では18~19世紀、フランスやオランダで教育現場での体罰が禁止され、「教師には体罰による懲戒が認められている」との慣習論が根強かったドイツでも、刑法上は暴行罪になるとの主張から、60~70年代に多数の教師が訴追され、多くの州が体罰を禁止した。 一方、英米は子供には悪性が宿るという「子供原罪論」から、体罰はそれを正すものとして容認され、教師の体罰は「親から委託されたもの」と受け止められてきた。 しかし、欧州人権裁判所が82年、英国の体罰状況は欧州人権条約に違反と判決。英国政府は4年後に公立校での体罰禁止を打ち出した。米国も70年代は連邦最高裁が体罰を容認する判決を出していたが、80年代から多くの州が禁止へと転換し、現在は全50州のうち、「親代わり」論などが根強い南部を中心とした州以外の30州が禁止している。 容認時代の英米でも、何が体罰に当たるのかは判例として蓄積され詳細な基準があり、体罰を行う場合も校長の許可が必要だったり、決められた部屋で手の甲や尻をたたくなど、教師が感情的にならないような手続きが定められていることが多い。日本は形式的には明治期の教育令(1879年)から体罰禁止を打ち出したが、事実上、空文化した。現在の学校教育法も体罰を禁じているが、結城教授は「日本は建前で禁止しながら、戦後も条件付き容認だった。最高裁判決もその追認に過ぎず、『指導なら体罰でない』となると、歯止めがかからなくなる恐れがある。体罰に頼らず学校の規律を維持する方法が必要で、例えばドイツでは義務教育期間での退学もある。権利保障と同時に、子供の年齢に合わせてもっと責任を問うような制度にすべきだ」と話している。>
⑥体罰は教師の教育力量の不足あるいは子どもとの信頼性構築に関する人間的理解の未熟性をあらわすものにすぎず、「有形力行使」を「教育的指導」にすりかえるとすれば、力に頼る「調教」に教育を堕落させる危険性をもつ。とりわけ、教師の教育評価が横行し、教師が分断され、孤立化してくると、指導力不足教師、ダメ教師の烙印を押されないようにと教師が焦らされる。また、その意味で、教師の教室管理等が重要な要件になってくる。その中で、強い「教育的指導」(という名の体罰)が許容されてくると、学校が「沈静化」されても、子どもの教育不信、心の傷は深まり、学校は非教育的時空間に堕して行く。今回のAという教師は、臨時教員の人であり、その地位の不安定性ゆえに、強い指導を常に意識していたかも知れず、またたとえ子どもが理不尽にみえる悪ふざけをしたとしても感情的に「立腹」して、小学生の子どもの胸ぐらをつかんで壁に押しつけるなどは、とうてい許されるものではない。
⑦しかし、教師も完全な人間ではない。未熟さや、感情的な要素は誰にもある。それを、専門職的力量を高め、自制した判断と、子ども理解を深めるには、教師集団全体の体罰に関しての理解、相互の援助と協力が不可欠である。教師はそのような厳しい職責とともに、未熟性を補い合い、孤立した存在にならないような相互協力と連帯が重要であり、子どもたちとの深い信頼関係を築く全校的な取り組みがまず重要である。そのような努力をしている実践は、日本に少なからず存在する。そういう実践こそ、教育委員会、文科省は励まし、援助すべきである。
なお、全体を通じて、僕は、堀尾輝久氏(東大名誉教授、元日本教育学会、日本教育法学会会長、民主教育研究所所長)の意見に賛同する。
<児童の胸ぐらをつかむ行為は肉体的苦痛や強い恐怖心を与えるもので、指導ではなく体罰にあたるのではないか。最高裁判所は下級審の判断を覆すだけの新しい根拠を示しておらず、子どもの権利についても言及せず、説明不足の印象を受ける。判決で教育的裁量の範囲が過度に広く容認される方向に拍車がかからないように望む。教師はまず第一に子どもとの信頼関係の構築を心がけるべきで、「体罰基準」の解釈にとらわれえ過ぎるべきではない。(2009年4月28日(火)毎日新聞夕刊)>
以上が、おおよそインタビュー時に話したことであった。記事は以下である。
投稿情報: 13:32 カテゴリー: ニュース・社会, 四季の暮らし-彩り、点景, 在野の知と実践の日誌, 大学改革、大学人の声 | 個別ページ | コメント (2) | トラックバック (0)
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