昨年2008年7月4日に、ふと思い立ってブログを始めてから1年を経過した。
前回までに132回の文章を書いたようだ。平均すれば、約3日に1回は書いていたことになる。多分、平凡な僕でも、ある種書かずにはおられないほど、それほどにストレスフルな日々を生きているのだろう。
100%私的な日記とは異なるものの、公的なトピック、私的なトピックの間を自在に行き来して、日々の生活の中での自分なりの考えを整理し、また今の生き方を振り返り、見つめ直すというねらいは、それなりに追求してきた。考えに広がりや深まりがどれほどにあるのかは、自分にはわからない。権力批判は、大いにあって良い。またcriticalではない時代認識は、泡のないビールのようなものでつまらないことこの上なしだ。しかし、他面では、批判には人格的節度が必要だ。用心して自覚してきたつもりだ。自分では意識しなくても、不用意に他者の尊厳を傷つけ、非礼があったかもしれない。とすれば、この場を借りて深くおわびしておきたい。
先週末は、家人が中学時代の同窓会参加にあわせて、関西と東海地域へ、子どもたちや旧友との語らい、楽しみに出かけた。僕は、久しぶりに先週末は、公的日程はなく、朝夕の犬の散歩と食事作りと片付け、日用品の買い物、散髪、たまっている仕事の取り組みと整理、軽い読書で過ごした。
日曜夕刻の散歩は、コースを変えてT川遊歩道だ。若者たちが、川遊びやバーベキューなどをして楽しんでいた。
上記の写真は、合間に読んだ作品だ。一つは、辺見庸の作品。『もの食う人々』(1994年初版、97年文庫版)である。この本を読むと、このようにして人間は<ものを食う>という行為にこだわり続けてきたのかという感嘆の思いになる。人がものを食うことの背後に、こんなにも、生命への執着心、暮らしと文化の多様性、食うことの快楽、食うことの困苦、食うことの欲望、食うことへの飢餓感、食うことへの絶望があるのかと、驚きの連続だ。辺見の「ものを食う人々」取材旅の一つ一つのエピソードの中に、人間はものを食って生きている存在そのものなのだとせまってくるものがある。これは、食に関する池澤夏樹や椎名誠ワールドともひと味違う、辺見的ワールドを示していて面白い。
さて、もう一つの作品は、高名なシェークスピア学者の小田島雄志氏の『シェークスピアの人間学』である。これまた、シェークスピアを読み込む上での示唆に満ちている。人間存在をかくも多面的かつ全体的にとらえることのできたシェークスピアという劇作家は、当時の世界にあっては、きわめて類まれな存在であった。人間の悪と善の両面を含んで人間であること、劇中に主人公と端役の差別なく、それぞれの人間的存在において主人公たるべく語らせた劇構成であったこと、宗教への相対的な視点を有していたこと、彼が幼年期と少年期に富と貧困の両面を経験し、早くの結婚でも多くの苦労を知った数奇な人生過程を歩み、大学に行かなかったことがかえって、とらわれのない自由な作品創造を生み出させたなど、など興味深いエピソードが続く。そのような理解があってこそシェークスピア翻訳が可能になる、あるいは逆に、翻訳の苦心の作業を通じてこそ、そのようなシェークスピア理解が可能になったということなのだろうか。いずれにしても、人間理解の世界が開けることにこの小さな本の貢献は大きい。坪内逍遙、福田恆存という先行する訳業に対しての小田島氏の独自な視点の意味も、氏の人生の歩みを通じて理解できる。具体的な訳文の違いにも、目から鱗が落ちるの思いになる。
p.s.
都議選が終わった。民主が、自民党と共産党の前回議席からの減少分を獲得して躍進した。偏見を恐れずに言えば、しかし、これは、民主党の都政政策への有権者の真の評価ではない。なぜならば、民主党の石原都政(自公与党)への協力と推進参加姿勢は、この間ほとんど変わらなかったからだ。これは、自民党政治への国民(都民)の嫌気とある種の政権交代期待への演出されたムードが押し上げたものだ。本格的な政治批判と変革・変動は、このことに終わらないであろう。しかし、道はまだまだである。
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