この1週間は、まさしくゆとりなき怱忙の時の移ろい・・・
9月14日(月) 雑務多き日中を終えて、夕刻は長い組合執行委員会。課題山積、着眼大局、着手小局の謂いの通り。
9月15日(火)全学教育科目責任者会議。
冒頭挨拶したS総長は先週の組合三役との会見で話したことと同じ内容の話をする。ということは、この内容に確信を持っているということを示す。その意味で、僕はその見解にあらためて落胆し、批判的にならざるを得ない。一つは、新政権の高等教育政策の先行き不透明と、道州制の動き、国立大学法人のゆくえのあやうさの動向紹介を自らの主体的判断抜きで行っていること。二つは、国境を越えた大学の質保障のグローバルスタンダード化、例えば、EUのボローニャプロセスと大学の基準の統合化、米国の大学の基準性などに日本も合致した動きをつくる必要の強調。従って、単位制度の実質化、厳格なる成績評価、等々の対応と中教審答申にいう学士課程改革、学士力の構築などに積極的に応答していく必要の強調がなされるが、そこには独自な熟慮や考察は見られない。いわば、外発的改革路線のさらなる徹底をよびかけているに過ぎないからである。
総長の一方的な説明が終わり、退出後は、担当責任者たちの、実務的説明が続く。まさしく国家的要請と大学総長の求める改革への忠実なる対応の徹底を求める内容のオンパレードである。
そこには、ボローニャプロセスが今難航していること-背景には英米的基準への一律的統合への仏独など各国の長い文化的歴史的文脈からの抵抗と、あらたな議論の模索がある-への言及もなければ、2単位講義における16週確保のありかたや成績評価におけるGPA制度の絶対視への疑問もなければ、新教育課程のありかたの多くの根本的な問題について、もはや問題にする意図も配慮もない。いわば、過去への逆戻りを拒絶しての改革既定路線への適応を求める強い姿勢のみが際だつ説明である。
参加者は、もはやまじめに議論しても無駄なことを先読みして、既定路線への最小限の労力によって対応する方策を考えて早くこの場を去りたいという気持ちに駆られているのが手に取るように分かる。これからつくられる新教育課程への4年間の中間評価報告書作成もそれぞれの科目担当責任者に求められるが、それとて、短期間につくられるもの故に、統括責任者たちには、これらの改革が成果があったとの結論をあらかじめ織り込み済みのものにしたい意図も眼に見えているので、個々の参加者は、この多忙な中で、まじめに時間を使える余裕もないし、統括者たちが議論を受け止める気配もないので、ならば、データの淡々とした記述に止めたいというのが、これまた全体の空気として読めてくる。
参加者が、こうした改革の空気に醒めてしまうのは、「批判的教育学」が指摘するように、この間の「新自由主義的改革」の虚構性に気づきはじめているからである。もう少し説明を加えれば、この間の「新自由主義的改革」を支える4つの社会的グループ」すなわち「新自由主義、新保守主義、権威主義的ポピュリスト宗教保守、そして専門職に従事しているマネージメントの専門知識を持つ中産階級」の内、大学における「保守的近代化」の中心には、前者3グループよりも、明らかに4番目のグループすなわち、「専門職に従事しているマネージメントの専門知識を持つ中産階級」から発信されている「アカウンタビリテイ、評価、情報の生産、測定制度など」、言い換えれば「狭義のアカウンタビリテイに基づいた卒業・進級テスト(high-stakes)や統一テストなどの政策」と近似した政策イデオロギー内容を感じ取っているからである。
そして、アメリカや英国生まれの高等教育政策において、それらを担う人々が「彼ら自身こうした諸政策から恩恵を受けている(彼らこそがこうしたシステムを稼働させるうえで不可欠な技術的ノウハウを持っている)改革」(マイケル・W・アップル、ジェフ・ウイッテイ・長尾彰夫編『批判的教育学と公教育の再生』2009、24-26頁)に、外在的に協力させられている馬鹿らしさを直感的に感じ取っているからに他ならない。
要するに、改革における当事者たちが、改革そのものの内容から疎外されて外在的に動かされることへの嫌悪を示しているのである。しかも政策追随型、トップマネジメントリーダーたちは、このことに気づいていないか、あるいは、確信犯的に無視していることがある。これは大学における民主主義の衰弱であり、現在の大学改革に横たわる知的倫理的堕落ともいうべき本質があると思われるのである。
午後は、この間のたまっている仕事をこなす地味な時間だった。夕刻歯医者へ行く。このところ定期的な通いである。
9月16日(水)この日も多様な事務仕事と前期試験レポート採点作業。夕刻は、「教育と法研究会」。院生のI君の報告である。96年の乾彰夫論文を手がかりとしての、60-70年代の対抗的運動における進路決定の先送り型運動-普通科高校の拡大-が持っていた弱点、すなわち、ノンエリートの自立の基盤づくりへの視点の欠如について言及して、さらにその弱点がもたらしたその後の運動への影響-子ども若者の貧困問題への自己責任論と制度的改革論の二項対立的構図の応酬-を受けて、そうした議論では解けない今日の若者の「意欲の貧困」問題をどのように、解決するのかという問いであった。こうした問題に対して、非人称的問題(制度、法)と人称的問題(関係性的介入、支援)をいかに架橋するのかという発想は、いかにも、現在の若手世代の発想であり、問題提起であった。ただし、「教育と法研究会」での議論としては、「貧困」への法的対応、具体的制度改革の法理論を議論することになったが、憲法学における潮流は、統治論栄え、人権論が黄昏れている状況がある。いわば、過去10年以上の新自由主義的改革の痛手が残っているのである。実定法的解釈学-判例の前進よりも、政治的裁量-運動的課題の方が大きい分野なのかも知れない。
9月17日(木)
午前は、部局60周年事業の実行委員会。午後は、その準備具体化の対応で追われる。試験採点レポートを午後から行う。夕刻は、こどけん(子どもの権利条例市民会議)の研究会。これは、多くの議論があったが、別の機会に書くとして、ここでは省く。
採点、成績評価作業を、その後、夜にかけて行い、ようやく成績の電子入力作業を夜半終えて帰宅。明日からは学会(社会教育学会)で東京出張である。日程の途中には、科研の共同研究会の参加もあり、その準備が終わらない。深夜の作業が続くが、心と体は、ややヨレヨレ、ボロボロである。
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