先週末から週明けまでやはり多事多難。あれこれの時間の経緯の中で、10月も終わってしまった。自分の仕事については、前に進むつもりが、なかなか思うようには行かない。まるで匍匐前進だ。
29日、組合団交
木曜は、午前、午後と、修論指導の調査実験や学部ゼミ。夕刻の非常勤講師での出講は、院生の都合で休講。
この日、夕方には、合間を縫っての当局と組合の団交に参加。交渉の労使のやりとりの詳細はここでは書かない。この日の交渉目的は、人事院勧告に準拠して、大学が不利益変更を行うと宣言し、具体的には12月の期末手当において不利益遡及(調整)を行おうとすることに対して、それに反対し撤回を求める組合の見解と要求内容を提示し、労使間の合意をめぐっての協議を行うことにあった。当然に一回で終わる内容ではない。今回の案件について、組合員の声を代表して組合執行部が憤るのは、無論、第一には、年間10数万円に及ぶ賃金減らしというその不利益の額の大きさにあるのも確かだ。しかし、第二に、それ以上に、不当と考えるのは、その根拠が、教職員の働き方の悪さとか、非効率とか、そういう問題ではなく、国が決めたからただそれに従うという論理に対してである。この間の徹底した効率化の名の下に、乾いたぞうきんを絞るようにして削減された人件費や節減努力を原資とする収益金をもちながら、また今年度の賃金分も財源に組み込みながら、「厳しい社会状況の中・・・・」云々などという理由だけでもって、国が決めたからそれに従うというやり方で、一方的に通知してくるという姿勢に対しての憤りがまずはある。
(一連の通達類は下記を参照)
人事院勧告のurl http://www.jinji.go.jp/kankoku/h21/h21_top.htm
人事院勧告給与 09.8骨子21kosshi_kyuuyo09.8.pdfをダウンロード
H大学通知 21kyuyo3.pdfをダウンロード
しかもH大学の10月13日の「総長通知」内容は、8月11日の人事院勧告を受けて、すでに9月7日の「役員会」で「国に準拠し、基本給・諸手当ともに引き下げる(住居に係る住居手当にあっては廃止)」と決定したものと同一であり、さらに団交を申し入れた当日に(10月6日)予定されていた「経営協議会」で、「不利益遡及」については、「平成21年4月1日から給与改定をし、12月手当で調整する」という内容で追認したものと同じものである。そこには、労使間の協議や合意よりも、経営上の手続きを何よりも先行させて、押し通したい、決定したいという意図が露骨であった。
明白なことは、これは、組合との団交を行う(10月29日)前の段階での公表である。すなわち、労使間の協議を行う前に一方的にあたかも決定であるかのようにHP上に掲載する(10月13日)という、やりかたである。このことは、労働契約法にいう労働契約の内容の変更(9条、10条)に関する労使間の協議と合意というルールを無視し、逸脱するものである。厚労省すら、同法の解説で戒めている、安易に一方的に労働契約変更を行い労働条件の不利益変更を行ってはならないとするルールの軽視と挑戦である。そのような法的手続き遵守違反というそしりを免れない悪質な性格のものである。そして、この一連の手続き経緯に見られるように、そこには政策方向決定に至る熟慮や苦悩は、およそ感じることができない。まことに、国への従順な姿勢と、ご都合主義と不合理さ、以外には何もないような代物である。
当局の腹づもりは、この「決定」を、組合には「説明」し(できれば無視したいところだが)、あとは時間切れまで交渉し、できれば無変更で行きたい、仮に変更があったとしても最小限の妥協に止めるようにしたいということだろう。そのような魂胆が透けて見えてくるのである。労務担当の腕の見せ所は、この交渉でタフであることを保ち、組合要求を退け、決定を行き着かせることを勘案するということだろう。
要するに、大学当局の言動は、①人事院勧告にその「不利益変更」の理由の一切をゆだね、自らの主体的な判断が欠如していること、②共にどのような大学を創っていくかの理念が不在であること、③正規、非正規の職員の生活実態に関する調査や暮らしの厳しさに共感を持とうとする姿勢が欠如していること、④まっとうな人間的な働き方に関する哲学の欠如がある、等で、ある意味で一貫している。
ここで、少し目線を引いて考えると、
法人化以降、それぞれの国立大学法人運営における財政的、人的な差別と格差構造は、より可視化してきたといえる。そこには、大学運営の基準のスタートラインの差異性が厳然と横たわっている。また、周知のように、大学の規模や歴史、社会的位置づけ、目的などは単一構造ではない。大学経営の優位性や困難度は、相当に格差的である。
例えば、毎年この時期に公表される、大学の諸力(財務、研究、教育、就職、政治経済文化分野での影響力等)比較のジャーナルの一例が上記の写真。H大学は、『週刊ダイヤモンド』(10/31号)で、文科省「天下り官僚一覧」に掲載されている大学の一つである。
しかし、大学間の差異性に関わらず、労使間の主要な力学と対抗論理には共通点が多い。
一つには、組合の力量問題である。組合に寄せられる大学構成員の切実な声を受け止め、それを論理的な立証と立論によって説得力、迫力を持つようにどこまで高めることができるかである。それには、豊富な生きた情報、具体的な交渉での粘り強さが不可欠である。とりわけ、組合員及び全構成員の声と運動を組織すること、また、組合執行部として、これらの声を背景として、そのネゴシエート力量をどれだけ発揮できるかが試されている。
他方二つ目は、いわゆる「当局」の力量である。頑迷に国・文科省の意向を気にしながら進める当局(事務局長、部長、課長など文科省派遣出向幹部及びそれに呼応する総長、理事などの大学教員出身の合成力学)の言説と行動は、多くの場合、支配者側の特有の言動パターンを示す。例えば、一見強腰であったり、慇懃無礼であったり、のらりくらりの論点ずらし、時間切れをねらう時間稼ぎ、あるいは一方通行的な通知・通達、あるいは下部部局スタッフへの恫喝の徹底、成果主義的人事評価によるアメと鞭(ムチ)の教職員分断、朝三暮四の類の目くらまし戦術、など、あの手この手の術策にはまことに長けている。(企業世界では、もっと徹底しているものが多いであろう。実際に、僕自身にも実際の見聞、知人友人を通しての情報など、この種の情報は少なくない。言ってみれば、山崎豊子や松本清張の作品世界である。)中には、マキャベリズムを地で行くがごとき、非情な政治力学を信条として、「我が国全体の利益」「本学の利益」「困難な中でグローバルな競争に打ち勝つ」などの目的を持ち出し、その目的のために手段を選ばず、多様な策を弄して、批判勢力や抵抗する相手を無視あるいは攻撃し、目的を遂行しようとする人物群もいないではない。
しかし、彼らにも弱点がないわけではない。
一つは、当局トップの人々であっても、まともに誠実に思考しようとすると組合サイドの論理や主張を否定できず、国・文科省の指令との間に、デイレンマ・心の葛藤が生じる問題である。無論、そのような悩みを持たないトップには関係のない事柄であり、それらの人々にとっては、組合などは無視するに限るのである。
ちなみに、新政権後、大学経営陣が気にしていたのは、自公政権から民主党(社民、国民も含み)政権に転換することで、政策変化が生じることである。もしも、新政権が人事院勧告を見直すとかの変化があったら、彼らも、説明に窮したであろう。幸か不幸か、人事院勧告については、新政権には政策変化がないことで、旧政権の方向を墨守しようたした人は、胸をなでおろし、他方では、まじめな経営トップには、デイレンマは、ついてまわることになったのである。
二つ目は、倫理的負い目である。無論、真実と政策遂行との間のデイレンマを抱え込むほどのナイーブなトップは、ごくまれにしか存在しない。一定の人物群に見られるのは、意識的に、面の皮を厚くし、目的遂行のためには、一般の人々の批判や声などを気にしないか、場合によっては、それを巧みに利用することに熱心な学内政治屋のパターンである。(ごくまれに、知的・倫理的卓越性が故に、非論理的、非人権的な施策を善しとせず、まっとうな対応をされるトップもいる)また、憎まれ役、汚い仕事、ヒール役などについては、それをもっぱら適職業務とする人をあて、自らはクリーンさを装うトップも少なくない。
しかし、どう考えても、公平性、道義性、人権性の欠けている施策を強引に押し通そうとすると、良心を少しでも残している限り、倫理的負い目を背負わざるを得ない。ヒットラーの命令を冷徹に遂行し、良心の呵責をもたなかったアイヒマン的人物は、意外にそう多くはない。従って、経営トップには、ある種の思考停止、判断停止によってこの葛藤を避けようとする行動パターンが多い。大学アカデミック出身者は、やっかいな財務や労務については避けて通りたいという意識が強く働く。従って、できるなら、国との財務上のやっかいな交渉も避けたい、組合の団交などには顔を出したくないという意識が働き、団交には実際に出てこない。そして、国とのパイプ役は文科省からの出向組に(事務局長はその筆頭)まかせ、労務対策や学内対策の実行責任と説明役は、それぞれの担当者に押しつける場合が少なくない。
この間実感するのは、実務交渉の実際場面に出てくる官僚的人物群には、まともな対話を行おうとする人が少ないことである。彼らの最大関心事は、自らの人事処遇評価である場合が多い。処遇上不利になることはしない。たとえ、一般職員や組合に批判されたとしても、自分は、上からの命に従って、自らの業務を粛々と行ったにすぎないというのが彼らの言い分である。
一人で声を出すことは勇気と矜恃がいる。一人の声を多数の声に変えること、さらにそれを成果に変えることには、勇気と共に根気とタフさがいる。しかし、成果が実れば、多くの人が元気になり、社会が動く。
かつて見た、映画「スタンドアップ」を最近もう一度観た。原題は、 North Country、実話に基づく脚本は、Class Action(集団訴訟)という本を前提としている。そこに貫くのは、
一人の人間の人間らしく生きたいという願いを持てば、野蛮には負けない。その人間的的矜恃こそが人々をやがては変えていくことになる、企業といえども、あるいは多数者であっても、暮らしている人間・家族のつながりを、壊すような支配のルールは存在しないという真理である。
最近公開されたらしい、映画「沈まぬ太陽」(山崎豊子原作、これはかつて一気に読んだ)も同様のテーマを描いているようだ。見に行く時間をどこかでつくろう。
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