年末の日々に入っている。
2009年という年は、僕にとって、どんな年だったのだろう。ざっと浮かぶ事柄を列記しておこう。(今日はその1)
1、はたして政治の流れは変わったのか?
昨年2008年後半にはサバテイカル研修で、二ヶ月半ほど英国に滞在した。日本でもそうだったようだが、昨秋からのサブプライムローンの破綻、リーマンショック、自動車産業ビッグ3の瓦解、など米国発の国際的な経済不況の影響は、英国の地にも直撃し、異様なクリスマスシーズンだった。世界に吹き荒れた新自由主義政策がその勢いをなくし、米国一極支配の黄昏と終焉を感じる多様な風向きを感じた年だった。その中で、オバマ大統領の出現は、英国はじめ欧州でも大きな潮流の転換を予感させるかのようなニュースだった。しかし同時に、オバマは本当にブッシュ型政治と決別できるのだろうかという不安も多くの人の共通認識だった。例えば、アフガン問題、パレスチナ問題、米国の軍事国家経済危機や新自由主義政策がつくりだした貧富差問題は、根深く構造的な問題であり、恐らくは、オバマの可能性と共に限界も早晩明らかにさせるものとも思われた。
英国の地方都市の小さな教会での08年のクリスマスミサでのパレスチナ問題への、地域の人々と共にしての平和への祈りは、小さな感銘であった。教会も時代の空気を呼吸し、理性を代弁する機能をもっていると。しかし、同時に、祈りは、どれほどに世界を変えていくのかという気持ちを胸に去来させた。恐らくは祈りとともにアクションが必要なのだ。
年末に帰国して、年が明けると2009年の動きは、こうした危惧を実感させることがいくつも続いてきた。例えば、オバマの新鮮さは徐々に薄れ行き、失望が大きくなっていくのも事実であった。米国のアフガン増派決定と核廃絶をかかげたオバマ大統領のプラハ演説との決定的な矛盾はそのひとつであり、さらにプラハスピーチとは対照的な核による軍事抑止力をうたったノーベル平和賞受賞記念のスピーチは、さらにより大きな失望をもたらすものであった。こうした矛盾した動きを現実政治のリアリテイとして冷静に解釈して賢者ぶることは、僕の趣味ではない。でき得れば、まだまだ国際的な世論の盛り上がりの必要があるとして行動を起こす方がはるかに人間的だ。オバマ評価は、2009年8月末の総選挙の結果誕生した日本の民主党連立政権の評価とも共通するものがある。政権の当初の公約が徐々に反古にされて行き、小沢の専制ぶりと行政刷新会議での事業仕分けに小泉政権時代の亡霊がぞろ顔を出してくるあたりは、失望というより、民主党を構成する本質の地が出てきたということなのだ。しかし、そう悟って傍観者的に言うのもいまいましいではないか。日本の普天間基地問題などへの米国の政治的軍事的恫喝とそれへの腰が引け、迷走する日本の政権の対応には、断固抗議の声をあげて、揺り動かす必要があるのだ。
2,私的な回想ー2009年の交友と備忘録
さて、友人のキースとスーザンが計画していたインド-ネパール旅行(2009年2月ー4月)の前に、2008年11月にインド・ムンバイでテロ事件があったことは記憶に新しい。英国では日本よりはるかに、中東・南アジアへの関心は強い。友人夫妻の不安は、僕の胸にもさざ波をたてた。その後、キースとスーザンは旅行を無事行ったが、その後日談はまだ聞いていない。次回再会したときに聞いてみよう。
2009年2月には、英国から2人の友人(ミリアム・ズーカス、ニック・エリソンの両氏)を招いて、シンポを行った。社会政策の動向、貧困問題、高等継続教育のゆくえ等、日英比較を行いつつ、二国間を越えての国際的な共通課題が浮かび上がった。日本の多様な事例を聞いていただいたことも収穫だった。
3月には、前半で、東京で日本青年館と日青協の主催での若者問題での中央フォーラムが行われた。僕は、韓国のチョン・ヨンスン(韓国雇用情報院)さんにお願いし来日頂き、宮本みち子さん(放送大学)や、森伸子さん(内閣府)とのシンポで、日本、韓国、欧州の共通面と違いが明確にするシンポを試みた。また、湯浅誠さんや首都圏青年ユニオンのお話しもインパクトのあるものだった。
このシンポの直後、僕は、10日間ほど英国の高等教育調査に出かけた。全英レベルの機関(全英大学協会、ラッセルグループ事務局、高等教育財政審議会)それに、大学コンソーシアム「ホワイトローズ」(リーズ、シェフィールド、ヨークの3大学)、それに、大学の担当部局の方(リーズ大学の友人たち)のインタビュー調査であった。これらのまとめは別に書いているが、グローバル知識基盤社会の変動の中で、高等教育が競争国家の要の位置を与えられ、質保障や評価それ自身が争点的な位置を高めていることが大きな印象であった。調査に同行されたH氏や院生と同僚のお連れ合い、それに再会した友人たちとの交友も貴重なものであった。
帰国後、3月末には、現代生涯学習研究セミナー(長野県阿智村)で英国の成人継続教育と地域再生活動について報告した。また、帰札後には、北海道教育学会と日本教育学会の共催で、北海道の学力問題についてのシンポ(北海道教育大学札幌校)を企画しコーデイネートする仕事があった。
4月以降は、通常の年度の再開である。講義や演習、研究会、学会、市民活動と多忙な日々を過ごしてきた。
合間を縫って、5月の連休には、家人と利尻-礼文の島巡りをした。自然の剛直さ、美しさを味わった。社会的時間をいったん切断して、自然の時間に身を委ねることも時に大切だ。
市民活動では、「子どもの権利条例市民会議」(こどけん)も、5月に4周年を迎えた。共同代表として過ごしたこの間の体験や出会いは、得難いものがあった。条例制定後の、実質化とモニタリングという新たな課題も以降の課題だ。http://www.ne.jp/asahi/sapporo/kodomonokenrijyourei/
最高裁の体罰事件判決については、新聞で、自分なりの見解を述べたりした。
講義では、今年は、従来科目に加え、hustepという留学生向けの新たな授業をもち、各国の留学生から高等教育や教育システムに対して多様な考えを聞くことができたのは、当方にも有益であった。
無論、前期の通常の講義・演習、研究指導等の学部、大学院での教育活動、委員会活動は例年通りだ。
5月には、東京での教育法学会、6月には、東京や道内での社会教育学会6月集会など学会参加と報告が続いた。北の図書館5人の会も久しぶりに会合をもった。http://homepage2.nifty.com/kitanotosyokan/index.htm
7月も四国での教育政策学会、出版編集会議その他、多忙であった。授業は7月一杯あり、採点評価などは夏の仕事の一つだった。
8月には、今年最初の韓国調査(公州、清州、全州など)とシンポ参加があり、多くの収穫があった旅だった。
また、後半は、社会教育研究全国集会(長野県阿智村)、日本教育学会(東京)が続いた。家にいたのは半月ほどだった。全国集会では、分科会運営等に責任をもったが、成果も多かった。名古屋では、久しぶりに中学時代の友人と旧交を温めたのは感慨深いものがあった。その他の日々も、研究会や公開講座報告等がつづき、夏休みを取れない日々だった。加えて、帰属する大学の教職員組合の執行委員(副委員長)役を引き受けることになった。組合活動の比重は、その後当然に高くなっていくことになった。
十勝の公立高校の教師の公民科授業での新聞社説利用に関して、政治的介入事件があり、それへの僕の見解も明らかにした。これは、その後政治的なイッシューの一つになっていった。
9月は、京都での学習社会学会、東京での社会教育学会があり、大都市研もあった。その間に修士課程の入試、部局60周年記念行事などがあった。それぞれに、準備など気が抜けない日々だった。
10月には、後期開講である。その合間に、今年二度目の韓国調査(プルム学校、洪東地域調査、韓国平生学習フェステイバル、平生学習学会参加)があり、帰国後には大学職員セミナーの実施があった。
そして、いよいよ、この月から組合と当局との団交が連続して持たれていった。この月には、北海道地域・自治体研究所も発足し、会員ともなった。日本科学者会議シンポもあった。
11月は、組合に始まり、組合に終わる月だった。http://ha4.seikyou.ne.jp/home/kumiai/
非正規職員の雇止め問題、人事院勧告に連動させる賃金不利益改訂への多様な抗議と宣伝学習活動、それに当局との交渉が持たれた。第三回団交では、当局が席を一方的に立って退席し、かつ就業規則改定を、組合との誠実な協議を抜きに一方的に行っていくという信じがたい事態(不当労働行為、労働契約法違反)が生じた。大学の民主主義の根幹たる対話と協議を破壊するという現実を前にして、あらためてきちんと民主主義を考え直す必要を強く意識させたものであった。中旬には、全道合同教育研究集会ももたれた。なお、この月から選出されて、全大教・北海道議長という責務も引き受けることになった。映画「沈まぬ太陽」を鑑賞し、これまで、真正面から向き合って考えることはそれほどなかった「矜持」というコトバの意味する内容を考えたことも大事なことだった。市民活動では、フリースクール等の活動をされている方々から貴重な証言と声を聞くシンポがあり、多くのことを学んだ。滝川のいじめ自殺事件、とわの森高校の寮生死亡事件等の裁判については、後方支援ながら多くの内容を学んだ。
12月には、二度の東京出張もあった。前者は日帰り、後者では報告も行った。寒さはここにきて一気に強まり、雪も根雪に変わった。組合の活動も、今後大きな課題を背負うことにもなりそうだ。
研究については、まとまった時間がとれずに積み残していることが多い。この冬に少しでも前に進めなければならないという気持ちが一杯だ。
年の終わりの師走だが、上記のように事実を並べてみたが、まだ本格的な振り返りはできていない。まずは事実の確認を行った。
なお、2009年に訃報を聞いたのは、恩師(本山政雄先生)、身近な先達(Mさん)、知人(F先生、Yさん)、友人(Sさん)など幾人かあった。謹んでご冥福をお祈りしたい。
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