先週は、講義再開の週。正月三が日を明けてすぐ授業再開というのは、何となく気ぜわしい。この地方は、季候のせいもあるが義務制の学校も高校も冬休みが長く、夏休みが短い。しかし、国立大学は、その適用外である。全国標準に従う。かつ授業時数における半期16週確保という至上命令が出て以降は、夏も冬も、休業日は最短の時間になってきている。(私学はまだ、1月は第二週から講義再開のようだ)
世の企業もそうだからと、大学もそれに近くなってきた。教職員の長時間勤務、残業も当たり前、こなせない仕事は家への持ち帰り。年休行使も少なく、休日業務の場合は、実際にはとれそうもない平日の振り替え休暇(書類上)に解消されている。加えて、教員は、競争的環境の中で、業績を煽られているようなストレスを抱えて外部資金その他の研究「計画」に縛られているのが実際だ。これでは、真に創造的な仕事は生まれないような気がする。本来の知的好奇心や、雑務に追われないようなゆとりが必要だと思う。互いのゆとりを承認しあうような環境を生み出さなくては・・・
ことしは、僕は、やや気がひけたがささやかな年休行使で1月4日をあてた。(授業がなかったせいもあった。それに、この5-6年年休をとったことがなかったのだから。)
1月8日、金曜日の教授会が終わり、雑務をこなして帰宅するとちょっとほっとした気分になった。今年もこうやって毎週が過ぎていくのか。
松が明けて、週末になり、体もなまった。
土曜は、家人が風邪気味でもあるので、織りのスタジオへ送迎した。朝の送り後に帰宅してから久しぶりに温水プールに行った。体を動かすのも良い。水中ウオーク、ゆったりとした泳ぎ、途中にサウナ採暖室で汗を流す。この繰り返しを行った。週末のせいか、50メートル水路を持つこのプールは結構な人出であった。
冬の長いこの地は、どうしても運動不足になりがちだ。また、太陽からの光と熱が弱い分、鬱屈とした気分が支配的になる。そうしたことから逃れるには、体を動かし、思考を回転させ、何か興味あることに集中する他はない。シローの散歩は、気晴らしには良いが、こうした休みの日しかなかなかつきあえない。日曜の今日は、家人が女○○人新年会と称して出かけたので、夕刻の散歩は当方が相手となって雪の公園を歩いた。それ以外は、当面は仕事が脳裏を離れない。その合間の読書は、硬軟合わせてリラックスタイムだ。
左の二冊は、韓国の若者の貧困に関する現代的トピック本と、現在の民主党連立政権の批判的理解の必読本。結構一気呵成に読めた。
次の三冊は、まだ途中読みだ。若者問題の国際的視点、重鎮の研究者の回想的文章を含む学力論、そして臨床教育学なる視点の多角的考察本。
左は、家人に送られてきた書物。パートナー(その人は、僕にとっても、家人にとっても、かつて大学の同学年の友人の方でもあった)を亡くされたF大学のMさんが、送られてきたものだ。亡くされたパートナーへのオマージュともいうべき、若い人に心を込めて書かれた「書くこと、読むこと、話すこと」という小論文は、蒙をつくところがあった。現在多様に使われている「リテラシー」(literacy)とは何をさすのかについて、英国に素材をとった歴史的考察論文である。一般に「リテラシー」は「読み書き能力」とされるが、「読むこと」と「書くこと」は「非対称」どころか、まったく別の世界であったという瞠目すべき実証が書かれている。多くの民衆は、「書くことはできなかったが、読むことはできた」つまり、「非識字」(「文盲」)ではなく、「半識字」であったのだと。しかも、民衆の「読む」行為は、社会的広がり、人のつながり、身体的技法として存在していたことを。教えられたことが多い。そして、Mさんの論文は、亡くなられたM・Tさんが偲ばれて心にしみた。
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投稿情報: Dissertation Proposal | 2010年1 月24日 (日) 04:14