LLIセミナー:<シチズンシップ学習をいかに批判的観点からとらえるか>
12月10日 水
この日は、<シチズンシップ学習の批判的観点>(Critical Perspectives on Citizenship Learning)というLLIセミナーが午後に行われた。
事前にセミナーの案内を差し上げたら、ハダスフィールド大学からMRAさんと同僚のDr. Andrew Mycockさんが参加され、セミナー開始前に僕の研究室を訪ねられた。MRAさんとは、先日の「リーズでの日本人会?」以来である。Andrew Mycockさんも、Citizenship Learningに関心があるのだという。なお、この日は、多元文化研究分野での在外研究で来られているK女子大のNさんとも初めてお会いした。彼女は、Osler教授のもとで研究をされていることをジェレミーやミリアムから聞いていた。Audrey Osler教授も、ヨークでのユネスコの人権Day関連の行事参加後、こちらに参加された。参加者は20数名。この日のスピーカーは、3人でそれぞれの演題と所属は以下の通りである。(括弧内は、やや直訳だが演題の内容を示す)
Dr. Dean Garratt : Citizenship Education :missing point? A contemporary cosmopolitan critique (Department of Educational Studies , Liverpool John Moores University)
(D.ガラット:シチズンシップ教育;見落とされている点-現代的コスモポリタンの批判的視点)
Dr. Rob Mark,
School of Education,: Perspectives on values in the promotion of democratic citizenship for the learning society.(Queen’s University Belfast)
(R.マーク:学習社会に向けての民主主義的なシチズンシップを推し進める上での価値に関する見方)
Dr. John Preston: Preparing for emergencies : citizenship education ‘whiteness’ and pedagogies of security(Institute of Education, University of London)
(J.プレストン:緊急時への準備:シチズンシップ教育‘白人性’と安全の教育学)
司会進行は、フィル・ホジンキンソン名誉教授である。フィルは、Citizenship LearningへのCritical Perspectivesを三人が三様に提起されるので、それを受けてCitizenship Learningの内容を広く検討したい意図がこの企画にはあるとした。それぞれ25分報告、2人が終わってコーヒーブレーク、その後1人が報告して全体討議に入るスケジュールである。
ガラットさんとプレストンさんは、報告概要文を用意され、マークさんは、パワ-ポイントスライドのハンドアウト資料を用意された。
内容が論争的であり、三人とも短時間に濃い報告をされて、全部を把握しきれない面もあったが、誤解を恐れずにこの日の内容と感想を簡略に記しておこう。
D.ガラットさんは、ドラフトを中心に報告された。(許可なく引用しないように報告に書かれているので、引用する形の紹介はしない)世界の大きな激変期、グローバライゼーションの進展は、必然的にコスモポリタンという性格を人々に与える。しかし、このコトバおよびシチズンシップ教育は、多義的で、混乱を与えている。とくに、シチズンシップを教えることを学校で始めることは良くない、また教師養成教育で適切な指導がなされていないので、余りにも単純化されたり、不正確な要約がされたりして、子どもたちにかえって混乱や誤解を与えている。どのように、この混乱を避けて、コスモポリタンシチズンシップの意味合いを明確にするかが問題だ。国民国家は、愛国心をシチズンシップ教育に求めがちだが(英国、米国の例に典型的に)、無論それがコスモポリタンシチズンシップを養成するものではない。国民、国民的アイデンテイテイと教育、民主主義、シチズンシップはどのように関係するのか。偏狭なナショナリズム批判として、多文化教育、多民族教育の歴史的文脈とシチズンシップ教育は関連するが同じではない。また、グローバルジャステイスの観点からすれば、単純なローカルコミュニタリアンでも、観念的なグローバルシチズンでもない。それでは、コスモポリタンリパブリカン、あるいはそのオルタナテイブとは何か。ガラット氏は、フーコー、ベック、あるいはオズラーなどを援用しながら議論を展開するが、彼のいうところの社会的正義に通じていくコスモポリタンリパブリカンの議論は、論争的主題であろう。質問では、一体誰が、コスモポリタンリパブリカンあるいはコスモポリタンシチズンシップの議論を求めるのか、学校で具体的にどう扱うのか、国際的な各国の経済危機にあって、この議論はいかなる有効性をもつのかといった根本的な質問が寄せられていたのが面白かった。
ロブ・マークさんの報告は、バラットさんの報告の晦渋さに比べれば、極めて明確な報告だった。ミドルズバラでの学校教育の経験の後に、北アイルランドでの生涯学習分野での実践に裏付けられた、人権、平等、リテラシー教育、幅広い平等に関する議論を経ての学校教育、この報告ではとくに生涯学習での実践に即して具体的に論じられたので、僕には良く分かる報告だった。社会的排除に抗する、社会的連帯と共通理解を深め広げていく生涯学習の価値と方法論などは、大いに参考となると思われた。政策的含意として、スコットランドに比べて、イングランド、北アイルランドでは、シチズンシップ教育は言葉の割に政策当事者はあまり関心がなく、政策の流れは、基礎的技術付与教育に力点を置いていることが問題だとされた。僕は、ロブの報告が、論点や方法が明確なだけに、逆に議論ではあまり対象とされなかったのが惜しいと思った。
コーヒーブレークの時間は、僕は日本人3人と情報交換をしたので、多少聞きたいことはあったが、先の2人の報告者に質問する時間的余裕はなかった。
最後のJ.プレストンさんの報告がある意味で、一番刺激的というか挑発的というか意図的に単純化したというか、そんな報告だったので、質問も彼に多く集中した。
彼は、英国との比較で主にアメリカ(USA)の国防教育におけるシチズンシップ教育の実態と含意を刺激的に報告した。米国では、ヒロシマ、ナガサキ後、原爆戦争の仮想の下では、国家安全には、国家(元首)の国民管理が重要性を増した。シチズンシップの新しい形態において、国防安全政策が優先度を高めた。国を守り、安全を確保するには、国民に国防意識を覚醒する必要があり、その際に市民(国民)たる用件が厳しく限定されるようになってきた。米国の空港で一番厳しいチェックを受けるのは誰か。誰でも容易に想像ができるだろう。特に、冷戦時代、さらに9.11以降のテロリスト敵視政策の中で、いかに生き残るかの基準に‘白人性’に代表される面が全面に出てきて、共産主義は無論、黒人、アジア人、ムスリムなどは、敵対的なものとして意識されてきた。シチズンシップ教育は、安全に生き残るための国防的道具となってきている。‘白人性’というのは、単に皮膚の色や民族を意味するのではなく、米国民全体の象徴的に保持すべき性質をさす。
質問では、無論‘ホワイトネス’とは何かが問題となった。また端的には、米国のオバマ大統領の出現をどう見るのかが質問に出たりした。シチズンシップが単に多数派の正当性を担保するに過ぎないとすれば、この問いは本質的であろう。あるいは、英国のシチズンシップ教育は、こういう米国型のシチズンシップ教育とは異なる原理と実践を積み上げてきた、それをどう考えるか。また、オウドリー・オズラーさんは、国際的な人権教育やシチズンシップ教育などの発展と比較して、この米国の意味をどう考えるかを提起した。
3人三様の報告をどう引き取るかは、参加者各人にゆだねられたが、結論はなかなかに難しい問題を突きつけられたようにも思えた。
僕の感想では、日本との比較では、日本のシチズンシップ教育は、まだ外国からの借り物の感はぬぐえず、これまで日本社会で築かれてきた地域、学校、社会教育などの人権教育や多文化共生教育などとどうリンクするかは明確ではない。他方政府の新自由主義教育の中で知識基盤社会を生き残る<強い個人=市民>の力量(社会力、人間力)形成が唱えられてきている。グローバライザーでもある、OECDや世界銀行型のコンピタンス力量や、リスクをあらかじめ計算に入れた金融教育の学校への取り入れ(これは、多分この間の米国及び日本の金融危機でご破算になるであろうが)など、危機社会への偏面的対応を示しているのは、ある種米国型の変形といえなくもない。いずれにしても、<コミュニテイ>-<ネーションステート>-<グローバルワールド>の三者をつなぐ、あるいはその矛盾を自覚したコスモポリタンシチズンシップの立論は可能なのか。根無し草でも偏狭なナショナリズムでもない、シチズンの相互関係を、学習と教育はいかに促進ないしは意識化させるのか。
言い換えれば、地域に根ざした対話型の市民教育、顔と顔をあわせての民族、文化、階層、言語などの違いを生かしての連帯を広げるシチズンシップ学習というものを理論的にどのように表現するのかを、アメリカの冷徹な現実などを踏まえて考えることが求められたように思うがどうであろうか。
最近のコメント