9月18-21日は神戸出張だった。
今回は発表報告もあったので、前日教授会終了後も、遅くまで準備があった。18日のフライトは、神戸空港入りのルート。
左は神戸三宮駅(JR)である。
社会教育学会会場の神戸大学(発達科学部)に行く前にホテルに荷物を預けて、JR、バスで移動。関西版のICカードを求め、JRに飛び乗ったが出発後の車窓の風景の流れ方が早く、しまったと気づく。新快速に飛び乗ってしまったのだ。六甲口を越えて、芦屋が次の停車駅。下車して、今度は普通列車で、六甲口へ戻る。神戸大学は坂の途中に各部局が点在する。発達科学部(旧教育学部)は、坂の一番上に位置する。神戸港を望む見晴らしは良いが、アクセスは難儀である。
初日は、いくつかのプロジェクト研究から始まった。
僕は、「労働の場のエンパワーメント」と題した会場に出た。
プロジェクト研究の意義について、朴木佳緒留プロジェクト代表から説明があり、3人の報告が続いた。
それぞれに興味深い報告であり、質疑も盛んであった。僕も質問したが、ここでは省略する。
学会年報54集が、刊行され、この日、学会に間に合った。遅筆の僕は、迷惑をかけながら、間に合わせたが、喜び少々、おわび大である。まだいくつかのつけがある。何とか、仕事の肩の荷を少しでもおろしながら進みたいものである。
夕刻にホテルに戻り、持ち込んだ仕事をする。
ホテルの窓からは、少年たちのサッカーに興ずる姿が見えてほほえましい。
翌日は、自由研究発表。僕は午前は司会、午後は、韓国プルム学校の調査報告第一弾で、共同研究発表を、Sさんと一緒に行った。
左は英国のユースワークの報告をされていたTさん。
午前は、それぞれの報告を司会の立場で整理しながら聞き神経を使い、午後は午後で、報告に向け、さらに質疑では頭の回転を目一杯にするような時間だった。
夕刻は懇親会であった。多くの人と話を交わし、散会後は、二次会を、六甲口で、既に進められていた東北・北海道のグループに、幾人かで合流した。
懇親会は、大学本部近くの会場だった。
ホテルは、Nさんと一緒だったので三宮から歩いて戻った。
第3日目は会場校企画やラウンドテーブルであった。
夕刻からは大都市の社会教育の研究と交流の集い。NさんやIさんは、岡山での公民館を存続させる集会に参加しての戻りだったようだ。
神戸市職員組合教育支部長さんの懇意の中華料理店での交流から始まった。「楽園」というおいしい店であった。
東京学芸大名誉教授の小林文人先生のいつものように気持ちのこもった挨拶があった。
前菜から始まった料理は、最後は餃子が出てきて終わった。皆さん残さずに平らげた。
Iさんに、岡山の集会の模様をやや興奮しながら報告してもらった。
大都市研第二日は、8都市の職員組合から、社会教育の現状とそれをめぐる討議であった。8都市とは、北から、仙台、川崎、横浜、大阪、堺、神戸、岡山、福岡である。それに研究者が5人加わった。市長部局への移管や指定管理者制度、職員組織のありかた、市民の学習活動の自由や実践の保障をいかにはかっているかが、討議主題であった。岡山からの報告は、緊急性と臨場感のあるものであった。千葉、さいたま、名古屋、京都、広島などが今年は参加できない状況であった。僕の住まう、札幌は相変わらず、こういう運動も組織も未発達のままだ。
多くの論点があるが、ここでは触れない。
神戸空港は、アクセスが良い。ただし、関西に3つも(伊丹、関空、神戸)空港があるのは、便利ではあるが、多くの論議があるようだ。
夜、神戸空港から、札幌に戻った。暑い神戸から肌寒い北の都市に戻った。
9月22日
神戸から戻っての翌日は、多くの校務仕事が待っていた。ある部局の人事面接の仕事は、午後でようやく終わった。少し期限がのびた成績評価の仕事も、この日に終えた。
なお、期限が延びた理由は、日中間の尖閣諸島問題のあおりで、中国の民間団体からのハッカー攻撃の危険があるとの理由が、文科省から流されたことによる。こういう過剰反応が、いたずらに対立を煽っていくことになると僕は思う。しかし。国立関連組織である勤務校の大学は、それに忠実に対応して、いくつかのシステムを17日金曜から20日まで、ネットワークをダウンさせて防衛したのだという。いやな時代だ。
夕刻は、一時的に遅れた夏期休暇をとって、神奈川県内の大学職員として就職し、大学院を休学中のK君が来たこともあり、院生と教員で懇親をした。この日は、連日の疲れもあって、すっかり酔って、帰宅した。
9月23日の秋分の日は、疲れをとるべく、睡眠をとり、ゆっくり過ごした。
連れ合いの末子のSは、この日2ヶ月の長い帰省休暇を終えて、大阪に戻っていった。入れ替わりで明日は、連れ合いの次男がやってくる。家族の模様も、秋の訪れとともに変わっていく。
最近のコメント