週末は、金曜日に長い時間の教授会。僕は関係する国際交流協定推進事業と主査となる博論申請論文予備審査委員会のゴーサインが出たのでやや安堵。終了後は、この週に進めてきた翌日土曜日からのこの地方の合同教研集会分科会の最後の準備。(前夜祭は、この夕方から始まっていたのだが)自分自身の報告についても、前につくっておいたレジュメの文章化作業。これは相変わらずギリギリの時間との勝負仕事。
「教研集会」とは、教員組合の教育研究集会の略称である。近代的専門職であり、学習する専門職(learned profession)の一つたる教員は、メジャーな専門職の医師や法曹職に続くマイナーな専門職の代表の一つ。対人援助・指導専門職として、常に自らを振り返り多くの学びを続けないと失速する仕事だ。時には、孤独な精神的自己決定と良心を維持する矜恃が必要だ。他方では、学習者(子ども、若者、成人)たる学び手や文化共同を共に生み出す地域の人々から励まされ、勇気をもらって、ようやくその本来の仕事を生き生きと続けられる存在だ。
専門職には、下記の七点の要件が必要なようだ。①大学・大学院レベルの高等教育機関での学位(学士ないしは修士以上)取得と②国家資格(ないしは準じた資格)の取得、③専門職採用の試験、④採用後の研修の保障と在職研修の継続的維持、⑤職能団体への加盟と倫理憲章の存在、⑥地位保全の法的保障、⑦学会や専門学術誌などの存在は、主要な専門職制度に組み込まれている形態である。教員もほぼこれに準じている。
加えて、制度化された研修以外に、自主的なサークル、学会、組合での自主研修がその仕事の内実に生きた力と自信を付与し、時に教員相互で悩みや苦悩を共有すること(同僚性)が不可欠だ。また、信頼する仲間との実践の交流と理解が明日の元気をかたちづくる。
教研集会は、そういう自主的な学びの機会の一つである。金曜夜は、文化行事や特別講演があったようだが、前述の日程や都合があって、僕はそれには参加できなかった。
土曜朝は、午前は、免許更新講習と教員の力量形成としての特別分科会に参加。これは、午後に共同研究者として関わる「国民のための大学」づくり分科会と連動した分科会である。講習を受講した現場教員と講習を企画実施した大学側(国立大学、私学)の教員、それに子どもをもちかつて臨時教員であった主婦の方がパネラーである。司会は、若い同僚のMさん。免許更新講習の昨年の予備講習、今年の講習の実際の状況と内容が受講者サイド、実施サイド両方から報告され、貴重であった。また、免許更新制度それじたいが、安倍内閣時に突如制度化された制度であり、国際的にも類を見ない異例な教員統制システムであること、さすがに総選挙後の新政権は見直しと廃止を公約・示唆していたものの、他の後期高齢者保険制度見直しや沖縄普天間基地移転問題公約発言と同じく、腰砕け、閣僚不揃い見解、豹変など新政権特有の迷走状態が出現してきていることなど、リアルな内容であった。こうした制度問題議論の複雑さがあるものの、しかし、問題の核心と行き着くところは、国民から信頼を得ることができる教員の力量形成にとって何が重要か、いかなることがなされるべきかという一点に帰着する。新政権のいうように、免許更新講習廃止と引き替えの教員養成の6年制度の新設なのか、あるいは、こうした自主的な研修などの支援と促進なのか、サバテイカル研修、あるいは専門認定などの在職研修機会拡大と資格付与なのか・・・、今後集中的な議論が不可欠な問題だ。新政権は、制度見直しとあらたなシステム構築のための審議機関の提唱をしているようだ。学会や組合など専門家と教員代表、さらに公募型市民の参加などが不可欠であろう。
土曜午後からは、大学分科会。日曜日午前も含めて、10本の報告がなされた。土曜午前の合同プログラムを含めると16本である。この分科会では、土曜午前の特別テーマ分科会も含めると、2日間で、のべ100名近い参加者であった。報告者も、学校教員、市民、学生、事務職員、図書館司書、大学教員といった多彩さがあり、国立大学、私立大学、高専など職場も広がりのあるものであった。土曜午後からの報告に限定すれば、基調報告(小生)、免許更新制事例報告、非正規職員のアンケート調査報告、学生と共に深める貧困問題学習実践、学生によるカリキュラム改善活動、R大学での教職員の自主的なSD・FD学習実践、H大学の職員セミナー実践、大学図書館と地域連携実践、M大学の労働安全実施実践、国立大学における全国的な最新政策動向報告などがなされた。両日の報告と議論の模様は、後日報告書にまとめる予定である。
日曜は、午前は、前日の夜の懇親会の酔いが一部残っていたが、議論とともに回復した。
いったん家に戻って休養し、夕刻からは、いっそのことと、映画「沈まぬ太陽」(原作山崎豊子)を家人とともに鑑賞してきた。
映画の主題は、何だろうか?山崎豊子の作品は豊饒だ。ただし、絞ってみれば、恐らくは、主人公・恩地元(実在モデルの存在)の逆境に立ち向かう場合の人間として捨てることのなかった「矜恃」こそが、キーワードだ。それは、生活上の困難や家族の犠牲や諸々の困苦を生来させた。「恩地」が、組合をやめるとか迷惑をかけましたとかの詫び状を書けば、悪いようにはしないなどという脅しや誘惑にはのれなかったのは、ひどい状態にくるしむ仲間を捨てられない、あるいは自分の原点である良心を曲げるわけには行かないという一点の誇り、人間としての矜恃である。
作品世界の「国民航空」(明確に実在する企業名が心に浮かぶが)という国策企業のあくなき収益第一、労務管理の姿は、どこか、現在の勤務職場の法人(このフィクション作品の行天四郎の事例ほどひどくはないとしても)管理職の一部の人々とオーバーラップするのが不思議だ。地位が上がると(あるいは押しのけて上がっていく人は)、謙虚と良心が消え、権謀術策の海におぼれていく場合が少なくない。
つまらぬことだが、10年前に刊行された「沈まぬ太陽」(山崎豊子作品)をめぐってリベラルと目されていた週刊A(A新聞)が、その内容に異様にかみついたようだが、そこには経営上のつながりや何かがあったのだろうか。企業サイドの記事ばかりを書かせたのは、なぜだったのだろう。10年たってみると、事実は明らかだ。しかも、モデルとなったJ航空は、その経営体質は変わらず、組合敵視は相変わらずのようだ。また国策経営は、赤字を増やし、今や瀕死状態だ。
なお、これまたつまらぬようだが、当時の時代性もあるのだが、映画作品ではやたらと煙草を吹かすシーン、野生動物を射撃するシーンがある。これは今の目線からは、いただけない。日本や米国の生活と比べての中東やアフリカへの僻地意識という視線も、今はいささか目線は違うようになってきた。その意味では、時代の変化も激しいのだ。
しかし、映画や原作に描かれている、機体整備の陰の努力には、もっと乗客たる我々は視線を注いでよいと思われた。そういう努力を企業がしているか、どうか。そういう人々の処遇や努力に敬意を払っている企業なのかどうか。そういう視点と価値尺度を、持つことの重要性を感じた。
実在のモデルの人は、御巣鷹山墜落事件の遺族世話係はしなかったようだが、航空安全には人一倍関心を注ぎ、生涯矜恃を抱いた人だったようだ。(著書と対話ブックレットがあるようだ。一度手にして読んでみよう)
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