先週末は、研究会(通称「地域再生科研」)が当地であり、一つは、H学園大学のKO先生の標茶町の地域再生実践の報告があった。新たな智恵というか、環境と産業と地域の主体の関係性について示唆を得たことも多かった。二つ目には、僕も「英国の社会的再生と教育の課題」として報告をした。終わってから近くの「おしどり」という行きつけの安くておいしいお店(お寿司屋さん)で、参加者の皆さんと多くの議論を続行させた。楽しい会だった。
週明けの月曜は、東京・日本青年館で、夕刻から3月に予定されている青年関係のフオーラム企画の最終的な具体化を議論する研究的打ち合わせがあった。多くの議論がなされたが、ここでは省略しよう。僕は、時間的に、その日には北海道に戻れず宿泊することになったが、参加者の中で、少し残って議論しようというメンバーのNさん、Bさん、Oさん、Kさんと終了後、青年館近くのお店で、おでんをつつきながら話し合った。これまた信州・下伊那泰阜村の地域起こしと教育・文化再生のNPOの活動が話の中心となった。地域調査に行った、Oさん、Kさんの話をもとに、それぞれの関係するエピソードを交えて、興味の尽きない話だった。宿舎に戻って、僕同様に、その日帰れず、たまたま同室になったOさんから愛知の多様な運動の現状を聞いたのも、もう一つの収穫だった。翌日は、本来は研究会の予定であったが、キャンセルになった。時間が余ったが(もうひとりの共同研究のメンバーが、札幌にたまたまその数日滞在することになって、急遽、札幌で行うことになったのがチケットを予約した後だったので)、少しゆっくり都心を散策して帰路についた。この時期は、北海道と東京などとは、平均して10度前後の温度差があり、体調を崩しやすいので、無理をしないで歩いたりして過ごすのが一番だ。
帰路の飛行機では、シェークスピアの「マクベス」を読んできた。途中読みだ。手にした、福田恆存訳は、演劇的なのだが、やや古風な江戸・東京風の言い回しで、時にことばがうまく思考に入ってこず、奇妙な感じだ。舞台表現としては多分抑揚が大きく、のりやすいのだろうが、日常表現に置き換えると、訳文が一人歩きしているような感じだ。英文の背後にあるものを理解するのに、この訳で通じるのだろうか・・・
この頃、人の行動や思考の奧にある、深い部分での感情を理解しないと分からないような不可思議な憤りや敵対行動、共感感覚、矛盾した行動、変節というものにぶつかることがある。また、人の、変節や、転向、懺悔、裏切りなどは、なぜそのように振る舞っていくのか不思議な場合が多い。権力欲、支配欲、金銭欲、性欲などはそんなに人を狂わすものなのだろうか?平気で、人を裏切ったり、陥れたり、踏みにじったり、殺したりなどということがなぜできるのだろうか?時に、それが「平和」のためとか、「正義」のためとか、「必要悪」とかの名目で行われて行く場合、なぜそういう虚偽に人はだまされたり、動員されたりするのだろう?
しかも、上記のことは、相互に、異文化世界、異言語世界だったりする場合、相互無理解のまま、衝突し、悲劇が倍増することも異例ではない。それを、理解するには、社会経済的、政治的な理解は無論不可欠であるし、僕もそのように思考してきた人間の一人なのだが、それだけでは不十分なことも少なくない。この場合、一見遠回りなようだが、(なお、一部に、社会経済的政治的理解の対極として、人間理解を、安直に脳科学や、心理学、動物行動科学などを用いて説明する怪しげな理論や解釈も多いように見受けられる。そして、それらが人間存在理解の切り札であるかのように、メデイア世界に横行しているようだが、それは脳科学や心理学や動物行動科学へのある種の冒涜であるようにも僕には思われる。やや言い過ぎかな?)、オーソドックスに歴史的・文化的な視点から理解する努力が必要だと思い始めている。一人一人の人間を深く理解するには、長く時間をかけて形成されてきた思考と行動様式というか、善悪の倫理観あるいは人間の感情と存在の源流的構造というか、そういうものをとらえないと理解できないものがあるような気がしてきているのである。その入り口のひとつとしての、今更ながらの、遅れに遅れてのシェークスピア入門を始めようと言うわけである。それは、中国の古典を読むことや、日本の古典文学世界を知っていくことと共通する人智の世界入門なのかも知れないし、あるいは違うことなのかも知れない。(今さらなんだ。グレートブックから入る教養主義に陥ったのかなどと冷笑されるのかも知れないのだが・・)
無論、人間理解の入り口は多様であって良いのだ。そして、人間を深く広く理解するには、現代社会はあまりにも複雑な様相を持っていることも確かだ。しかし、たとえば、医学から文学の世界に転じた加藤周一氏は、そういう歴史の縦軸と世界各地域の文化の横軸、つまりは古今東西を俯瞰し、人間という存在を重層的に相対化してとらえようとしたすぐれた先達だったのであろう。ただし、僕は、そういう知の巨人と比較して自分を考えるつもりもないし、必要もないと思っている。知の巨人にはるかに及ばなくても良いのだ。自分のスタンスで、一人のアマチュアとして、そういう先達に謙虚に学び、考えを深めて行けばよいのだ。人生の残余時間がどれほどあるか分からないが、専門以外の学びは、ゆっくり時間をかけながら、納得しながら進めば良いのだ。シェークスピア学などを専攻されている人たちは、シェークスピアが生きた時代と現代を重ねながら、人間存在の複雑さを理解されようとしているのだろう。今も昔も、世界の東も西も、北も南も、ものの善し悪しの答えは、そんなに単純ではないのかも知れないし、単純なのかも知れない。だから人間を生きることは、面白いし、また時に甘くも苦くもあるのだろう。人間の善悪の本質や総体を深くとらえるには、自分の経験と、考えと、他者からの学びを生かして、自分の言葉で探すしかない(のかも知れない)。そしてそれは、自分の生命力にあわせて途中で終わっても良いのだ。多分、誰かがまた引き継いでいくのだから。・・そして、無論、先は短くも長くもあるのだ。
「きれいは穢い、穢いはきれい。さあ、飛んで行こう。霧のなか、汚れた空をかいくぐり。・・・」(三人の魔女、マクベス)
p.s.
今日は、夕刻から変更した研究的打ち合わせを、来札したMIさんと研究室で行った。その前に、年度末の幾つかの残務仕事があり、これはこれでこの時期の例年の課題だ。また、それとは関係ないが、3月に、もう一度訪英調査ができることになった。これもこの数日の変化だ。その分、仕事も増えて大変になるが、一つの自分を鍛える機会が増えたことでもあろう。
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