昨年暮れも近づいた頃、大学時代1学年上だった(卒業時は一緒だったか?)友人のTさんから、増原彬陽さん(享年64歳、作家、演出家、脚本家、「ひらき座」座付き演出家、指導者) の訃報を聞いた。10月はじめに自宅での一酸化ガス中毒事故(空だきのヤカン火事)だったという。その増原さんの告別式に多くの友人・知人・演劇・文化関係者たちが参列し、彼の突然の死を悼むとともに、久しく会っていなかった方たちの懐かしい邂逅にもなったという。僕は遅れてそのことを聞いたので、告別式にも参列できず、懐かしい方々とも会えなかったが本当に驚いた。
増原彬陽さんと聞いても、知らない人が多いかも知れない。多分、現在僕が住まう北海道では知る人は殆どいないであろう。しかし、東海地域、演劇関係者、地域の文化・教育活動では、名を聞いた方も多いと思う。
僕は、大学時代「劇団新生」という大学の演劇サークルに1-2年時に属していた。2年次以降、大学祭実行委員や学部の自治会執行部、ゼミ活動などに時間をとられ、参加が遠のいたが、僕の大学生活の原点の一つである。その「劇団新生」に入ろうと思ったきっかけは、高校時代にはとても想像できなかった時空間があったからだ。当時、無論学生ではあったが、すでに大人の風格をもった役者や演出家、そして多くの劇団員が醸し出すエネルギーとオーラは不思議な魅力を放っていた。魅力というのは文字通り、魅せられるいうことだった。その魅力に引き込まれて過ごした「るつぼ」ともいうべき時空間は、僕を溶かし、変容させたと思う。劇団「新生」で過ごした時間は短くはあったが、僕のどこかに潜んでいる人間観察、人間賛歌の原点の一つだ。
当時の劇団新生の役者・演出家としては、下記の三人が目立った。
岩川均さん(現在は、名古屋に本拠地をもつ「劇座」の役者、演出家。当時、理学部から転部して文学部国史研究室)、http://www.gekiza.com/member.html
彼が後年演じた、ミュージカルThe Fantasticksの中でうたったtry to rememberという曲は僕の好きなメロデイの一つである。(色々な歌手が演じているtry to rememberのサイトを紹介しておこう。)
http://dogaeigo.blog118.fc2.com/blog-entry-5.html
増原彬陽さん(苦学生かつ実に創造的でエネルギッシュな方。文学部美学美術史研究室の学生たちのドンでもあった。)http://www.hirakiza.com/
演出担当のYさん(工学部何年生だったか?シュレと僕らは尊敬して呼んでいた。演出家の風貌だった。数年後惜しくも夭逝された。)
僕の大学入学時、彼らは、「新生」の中でも際だって大人だった。今思えば、大学の何年生だったのか(少なくとも4年生は越えていて、岩川さん、増原さんは6-7年生だったか?)大学に入ったばかりの僕には、何とも形容しがたい大人たちだった。最初に観たのはチェーホフ「白鳥の歌」だった。演じた岩川さんはすでにプロの風貌だった。次いで観た「大阪城の虎」(作かたおかしろう)は、確かNAkataniさんの演出だった。(高校教師を経て、現在「なかとしお」という名で、幅広く演劇活動をされている)。http://www.geocities.jp/nakancs/nakaindex.htm
増原さんは、「大阪城の虎」でその演劇表現力量をいかんなく発揮されていた。当時の僕の記憶では、タンス店で働きながら、親に仕送りし、学生生活も続け、文学部美学美術史闘争のリーダーでもあった。(当時のK助教授の悪行への反対運動)満州引き上げ組でもあって、そのことも話されていたように思う。
僕は、その後「ガリレオの生涯」(ブレヒト作、Yさん(シュレ)演出)で、端役(下級の僧侶フィルガンツオ)を演じたが、そのときのガリレオ・ガリレイ役のFUJITAさんも大人だった。(東京のH大を退学して、N大に再入学し、このとき既に教養部4年生(留年限度)で、学生運動でも演劇の役者の器においてもあらゆる点で大人だった。理学部大学院を経て、kokudo地理院へ。その後、アフリカをまたにかけられて活動される。)
僕の、劇団「新生」の活動は、その後チェーホフの「結婚申し込み」(名古屋弁版)の演出(助手)を新歓公演で行ったのが最後だ。(プロ劇団「演集」の若尾正也さんの指導を受けたことなど懐かしい。)その後は、学生自治会活動などの方が忙しくなっていき、足が遠のいた。
「ガリレオの生涯」で一緒に、活動した仲間たちと共に過ごした山の上サークル室で過ごした時間、春及び夏合宿、二回の公演、打ち上げ合宿など、昨日のようだ。
少年期のアンドレアを演じたUさんは一時期国際機関の職員、その後日本語教師として大学の留学生支援を、青年期のアンドレアを演じたI君は司法書士で頑張っている。役者でも出演し、また大道具、小道具で裏方をつとめたS君、Y君は医学部生だった。それぞれ民医連系の病院の医師として今や中心の一人だ。その他、看護学校の多くの方、理学部、工学部、農学部、文学部、教育学部などから団員は構成されていた。進路も多様だった。演劇の道に進んだのは岩川さん、増原さん、NAKATANIさん(教師を長くされたが)ぐらいであって、多くは、教員、図書館専門職、心理職、民間企業、看護師、研究者、法律家、医師、その他であった。総合大学らしいメンバーだった。その後カップルとして結婚されたメンバーも少なくない。「劇団新生」からその後独立した「音舞」は太鼓や勇壮な舞踊で日本の伝統文化を伝えかつ創造しようとしていた。後年には、卒業後、「ふるさときゃばん」などに入団していった後輩もいたようだ。現在の「劇団新生」のことはよくは分からない。名前は残っているようだ。
この当時の記録は現在の「劇団新生」のHP上、残っているのは、下記の年表のようなことらしい。(?が多いのは、資料が散逸しているからだろう。僕がその?を埋めることができるものも多いが、ここではそのままにしておこう)http://www.shinnsei.com/rekishi/1964-1979/
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<第7回独立公演>「ガリレイの生涯」 作・ブレヒト 演出・? 日時・1971年 1月?日 場所・? 1970年12月・東国祭でも同上の
芝居を上演 |
<新歓公演>「白鳥のうた」「結婚申し込み」作・チェーホフ
+民踊構成 演出・? 日時・1971年 4月?日 場所・? |
<第12回名大祭>合唱構成劇「松の木は死んだ」 作・? 演出・? 日時・1971年 6月?日 場所・? |
<秋期公演>「奇跡の人」 作・W・ギブソン + 構成詩「広島」
+ 民踊構成 演出・? 日時・1971年 11月 場所・? |
▼1970 |
<第6回独立公演>「大阪城の虎」 作・かたおかしろう 演出・? 日時・1970年 1月?日 場所・?
4月・新入生歓迎公演でも同上の芝居を上演 |
<第11回名大祭>「署名」 作・? 「小さな駅のある物語」 作・?
「オキナワ」 作・こばやしひろし 日時・1970年 6月?日 場所・?
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話を戻すと、増原さんとは、後年僕が社会教育関係で青年教育に
関わっていく中で、もう一度出会うことになった。当時の名古屋市
北青年の家での若者たちの演劇活動を指導されていたのが、増原さん
だった。
名古屋の青年サークルには、当時「生活史学習」という方法を取り入れ
た総合型サークルの運動があり、僕は研究者集団の一員として、
その実践に深く関わっていた。名古屋サークル連絡協議会(名サ連)、
各青年の家サークル連絡協議会、名古屋市青年団協議会(名青協)、
愛知県青年団協議会などにおける多様な学習・教育実践は、
今も多くの宝を有していると僕は思っている。
これに対して、演劇を中心とした総合型サークルを志向していたのが、
ひらき座の若者たちだった。増原さんは、その理論的実践的指導者で
あった。機能型サークルと総合型サークルの区別と関連の議論の中で
、機械的峻別論を唱える一部の青年がいたが、それは明らかに誤解
というべきであった。相互に対等な、裏方と表方の区別をつくらない、
自分たちの現実世界を演劇を通しながら理解し、描き、表現する、
ひいてはその現実世界を変革していくという志は、貴重なものだった。
仲間の生活史を聴き、自らも調べて生活史を書き、皆に聞いてもらい
暖かい励ましと、忠告や助言を受け止めるという学習は、基本のところ
では同じ精神を有するものであった。
増原さんは、小説を書き、脚本を書き、漫画を書き、演出をし、自らも
役者でもあったが、いわゆるプロの役者の方の道ではなく、若者たちの
人生の師匠として、人業劇団 ひらき座の座付き演出家として、
まっさんと呼ばれて慕われていた。僕は、いつも遠くから敬意をもって
増原さんをみつめ、時に言葉を交わしたが、つきあいとしては、
はるかに「遅れてきた青年」ではあった。今は、その青年も還暦の年に
なってしまった。増原さんは、64歳で突然に地上から姿を消されて
しまった。
しかし、彼が伝えた(かった)精神は、必ずや、若きひとたちに
受け継がれていくと思う。 心から、ご冥福をお祈りしたい。 |
p.s.
増原さんは、合唱曲「ぞうれっしゃよはしれ」http://www.utagoekissa.com/zouresshayohashire.htmlで有名な
藤村記一郎さんとも親交があったようだ。次の記事は、藤村さんの作品の一つだが、増原さんの編集した詩が組み合わされたものだ。(以下は、HPからの引用だが、ご寛容願いたい)http://www015.upp.so-net.ne.jp/shiawase/sak_shokai.htm
一行詩による合唱構成「父よ母よ」
原詩:吉村英夫氏編著 一行詩「父よ母よ」「息子よ娘よ」より。
構成:増原彬陽 作曲:藤村記一郎
1995年、名古屋青年合唱団の委託で、藤村記一郎氏によって作曲された。当時ベストセラーになった、津の高校教師吉村英夫氏編著の本、一行詩「父よ母よ」「息子よ娘よ」を、名古屋の演出家であり脚本家である 増原彬陽氏が編集した詩に曲をつけたもの。親と子の辛辣でコミカルな本音の会話がストレートに伝わってくる秀作。全11曲。
名古屋青年合唱団、多治見青年合唱団、中村ぞうれっしゃ合唱団などで演奏されている。
- プロローグ
「父よ言いたいことがあったらはっきり言え」「母よ言いたいことをそのまま言うなよ」
- 勉強せいのうた
「お父さん、勉強しろっていってください。お母さん、もう寝なって言ってください」
- こっちだっていいたかない
「娘よ、答案用紙をあちこちに広げておかないでください。心臓にチョー悪い」
- じゃあ、言わせてもらうけど
「母よ、私の脚が大根なら、あんたのは切り株やん!」
- 父にも言わせてもらうけど
「私の電話中、耳をダンボにして聞くのはやめーい!」
- 私の男に手をだすな
「娘よ、雨の日パパをアッシーくんにするではない」
- 壁
「母よ、私の大切な友だちを悪く言ったあなたが大嫌いです・・・」
- 永遠に
「繰り返し、父や母は言い続けた。子どもに私たちを越えてほしいと」
「息子たちよ、君たちもまた繰り返すのだろうか。父母と子どもたちの会話を」
- 行動が伴えばね
「父と母はまだまだ人生これからとはりきっているのに。その一言はキツイ! オジンオバン!」 「娘よ、そんなにスネばかりかじらないで、比べてごらん。あなたのほうが太いぞ。ごついぞ」
- わかっちゃいるんだよ~子どもたちの返歌~
「お父さん、僕が腕相撲で勝ってしまったとき、なんか、さみしかった・・・」
「いつになったら、ありがとうっていえるのかな・・・」
- エピローグ
「だけど、父よ母よ! 老後は心配いらない。盛大な葬式してやる!」
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