朝の散歩の途中、N公園の空き地には、このところの冷雨で湿度が高いのか、切り株を栄養源とする巨大なきのこがあり、驚いた。
先週末の京都での学会出張から戻っての週明け、またもや時間の回転がめまぐるしい日常に戻りつつある。
9月7日(月)
午前は、この間の出張で増えた資料の整理や、専門外の読書を少しする。前に求めた『生きる意味と生活を問い直す-非暴力を生きる哲学』(青木書店2009)である。この途中読みの感想は友人のHさんに送った。
Hさん
教育学会の折に、ご恵贈いただいた『生きる意味と生活を問い直す-非暴力を生きる哲学』を合間、合間に読んでいます。
巻頭の佐藤和夫論文の「暴力を克服する「政治」的経験について」は、大学紛争時の自らに加えられた身体的心理的政治的記憶に始まる総合的考察と問題提起で、アーレントの読み込みなどを含めて、僕自身の大学紛争時の体験とも共感するところがあり、大きな示唆を受けました。その他の現代的、根源的な問いの諸論文も刺激的です。読むのが遅いのか、Hさんの論文にまだたどり着いていません。(昔から最もおいしいものは最後に食べるという習慣からか?)
片岡洋子さんの「子どもの性暴力はなぜ教育問題にならないのか」は、片岡さんらしい鋭いまなざしを感じました。ついでながら、ちょっと気になったのは、ジェンダー的視点における、正しいことを言うとき(あるいは言われるとき)の発信者側あるいは受信者側のスタンスについて、意識したことです。僕がまだ保守的なのか、片岡さんの論を読んでいるとその通りという共感と同時に、男達の犯罪において、自らが「男」であることの「とがめ」を意識するようなところがあって、それをどう考えたらよいのか悩みました。先日の教育学会では池谷壽夫さん(日福大)がドイツの、フェミニズム教育と協働する男子援助活動を報告していて、男性自身の性的被害性について触れて、別のまなざしもあることを学び、眼から鱗が落ちる思いでした。ブッシュ政権が生み出したグアンタナモ基地の「テロリスト」(!?)疑惑収容者への「無期限拘留という暴力」(大河内泰樹論文)の救いのない暴力への言及は、同じ時代に生きている自分たちの責任というか、こうした暴力を根絶させるための内的責任を自覚させます。ブッシュ後のオバマ政権は、グアンタナモ施設の廃止を決めましたが、着地点が不分明なままです。小屋敷琢己氏の「戦後日本の<沖縄経験>は、あらためて沖縄をどう自らの歴史に位置づけるかといった点で、日本の知識人や論壇者たち、さらには民衆の歴史的自覚の欠落を問う視点でありこれは長く僕も意識してきたことであり同感でした。ただし、余り新しい知見を感じませんでした。ポストコロニアルの視点が必要なのかも知れません。後藤道夫さんの「現代における市場批判と搾取批判-福祉国家とマルクス」は、あらためてのマルクスの市場批判の根源的把握を、労働経済哲学者の立場から経済学理解の革新を迫るものであり、サービス労働などの搾取論など、経済民主主義のありかたを考えさせられました。今は、合間読みですので、ここまでの段階です。この本の読書は、無自覚的暴力性への鈍感さや平和と他者理解への根源的立脚点をきちんとチェックし、振り返って思考するのに適切なテクストであると感じています。また、体験や経験をさらに思想にまで引き上げていくこと、さらに理論的レベルで考えなおし、再び実践にまで具体的なコトバとして再定義することを意識させます。いわゆる、理論と実践、経験と思想の上向-下向の往復過程について、一つの示唆を与えてくれます。・・・後略・・・
午後、大学に出て、院入試関連の仕事などを行う。夕刻は、組合執行委員会だった。大学の管理運営への批判的アクターであり、ステークホルダーであるユニオンが今なすべきことは多い。6時に始まり、9時半近くの多くの議題の論議がなされ、行動の確認がされた。難問山積であるが、ユニオンに寄せられる期待も多いと感じた次第である。
9月8日(火)
朝起きると涼しいというか、やや小寒い。天気予報では、近く道内のいくつかの山に初冠雪があるという。
この日も、大学での雑務が続いた。なお、夕刻家に戻ってから、頭の片隅に残っていたことは下記のことだった。
暴力あるいは非暴力に関する読書との関連で、この日は、我が国の政治・軍事関与者たちの「戦争の記憶」の問題が僕の頭の片隅にあった。
ひょんなことからである。昨夜、「NHKスペシャル-日本海軍 400時間の証言」(その2)を観たからである。8月に放映されたシリーズものだが、評判を呼び、教育テレビで再放送しているのである。僕は、それを遅れて見ている訳だ。海軍将校たちの開戦時の立場、あるいは終末期の特攻作戦への関与などについての「軍令部」(参謀ないし作戦指令部レベルの将校たち)の反省会記録(およそ1980年から1991年まで月に1回のペースで行われ、400時間、130回に及ぶ記録である)が残されていた。それを構成し直して番組にしたわけである。
取材された回想テープが突きつけるものは-報告した当事者の主観的な思いとは別に-具体的な軍事作戦上の事実評価と当事者の記憶である。肉声が伝える情報には、戦争の記憶が詰まっている。NHKは、その検証素材を提供した訳である。
アジアの民衆への加害者としての戦争犯罪性について、我が国の歴史的総括は、終わったとはいえない。「歴史の記憶」の総括については、多くの問題をかかえていることは周知の通りである。それは、他国からの批判という回路ではなく、日本自身が自覚すべきことがらである。他国社会の人々と真の意味で連帯して行くには、超えていかなければならない課題だ。
そのことを、前提としても、さらに軍事的なレベルにおいても、戦争の科学的な総括は十分にされたことがなかった。
陸軍については、参謀本部のエリートたちが紙の上で立案した作戦において、現場の状況をきちんと把握せず、兵站物資に裏付けされない精神主義的作戦での無数の兵士の無惨な戦死(戦闘場面以上に、多くは餓死を余儀なくされたり、無謀な突撃や自決を伴って)を引き起こしたことは関係者のみならず、多くの国民が、自らの戦争体験において知り得てきた事柄である。
これに対して、海軍は、陸軍ほどではなかったという海軍美化神話(戦争に反対とまでいかなくとも理性的判断があった云々)が、今まで言われてきた。
しかし、この番組では、当事者の証言を重ね合わせることによって、それら海軍が理性的であった云々の話がおよそフィクションに過ぎなかったことが浮かび上がってくるのである。多くの旧将校が反省として「やましい沈黙」に支配され、何もできなかった。判断停止状態であったという述懐をしている。気持ちは分からないではないが、そのことで、かれらが免罪されることにはならない。
海軍の矛盾した政策態度、軍事的無謀さは、戦後の長い研究調査過程を経て、具体的に多くのことが指摘されてきた。
例えば、特攻作戦については、もっぱら国への愛国精神や散り際の美学のようなことばかりが語られてきた。しかし、実際になされた特攻作戦の無謀さは、実際の兵器開発者自身の罪責意識としても残されていた。そのような無謀さ(特攻兵士を消耗品としてとらえる考え)の責任は誰もとろうとしてこなかったのである。事実として1943年からすでに特攻兵器開発が命ぜられていたことなどからすれば、特攻作戦は、1944年、あるいは45年段階の苦し紛れの作戦ではない。軍令部は、明らかに、兵士を消耗品として、成功の見通しのない軍事作戦に赴かせたのである。軍事作戦は、自然発生的にはなされない。彼我の軍事力の比較、作戦遂行の可否の見通し、その上での軍事資材が準備され、兵器が開発され、軍事人員が確保され、訓練と作戦実行が体系的に遂行される必要がある。それを遂行命令した人々が、その作戦の稚拙さ、無謀さについての責任を語ろうとせず、戦後沈黙を続け、最後になって一人一人が回想し残した証言において、それが、命令されて仕方なかった、避けようがなかった、時代の空気に圧倒されていたなどであるというのは、厳しいようだが、歴史の総括としては不十分である。しかも、これら参謀達の反省会がなされていたことを、実際に特攻作戦軍務につき、結果的にかろうじて生き残った人々には知らされていなかったのである。現在残された数字によれば、5000人以上の若者たちが、成功率2%の特攻作戦で命を落としていったという。歴史の反省は、闇に葬り去ってはならない。我々が受け継ぐべき重い課題である。
このこともあって、少し話が飛躍するが、「ゾルゲ事件の謎」(加藤哲朗、2007.11.11、ゾルゲ・尾崎墓参会講演記録)を読んでみた。新しい歴史的発見資料による知見を示した加藤哲朗の言うように、ゾルゲ・尾崎事件は単なるスパイ事件などではなく、戦争を未然に防ごうとした国際的な運動の文脈の中で彼らをとらえる必要があるようである。(ゾルゲの上海での活動などを含め)ゾルゲ自身も認識していたように、当時の日本の政治支配層は、日本の軍事的遂行において資源及び生産力などで圧倒的な非力状態であったことを知り得ていた。すなわち、戦争中止にでき得た判断材料を有していた。しかし、にもかかわらず、無謀な戦争に突き進んで行ったのである。政治支配層も軍部も理性を失っていくその原因は何だったのか。その根本原因が深く究明される必要があると思われた。
最近のコメント